Everything's Gone Green

感想などです

さようなら、スターウォーズ。初めまして、スターウォーズ。

 想像してほしい。

 あなたはこれから映画を見る。チケットを買って飲み物やポップコーンを持って映画館のシートに座り、場内が暗くなり、予告が色々と流れてから本編の上映。
 そこで見た映画に、どのような要素が含まれていたら、あなたはその映画を「スターウォーズだ」と認識するだろうか。
 
 唐突な質問なのはわかっている。
 
 20世紀フォックスのファンファーレ? ルーカスフィルムのロゴマーク? ジョン・ウィリアムスのあのテーマ曲と画面奥に向かって流れていくあの字幕? 映画スタートと同時に姿を現す巨大なスター・デストロイヤー? ライトセイバーR2-D2? 
 
 スターウォーズシリーズの最新作「フォースの覚醒」には、その全てがある。等間隔に並んだライトパネルとその照り返しにギラリと輝くストームトルーパーの装甲服。埃と油汚れにまみれたミレニアム・ファルコン。漆黒の悪役。砂漠の星とそこに暮らすエイリアンたち。ならず者たちが集う怪しげな飲み屋。ハン・ソロとチューバッカ。勝気なヒロイン。引き継がれるスカイウォーカーの血筋。全部。全部ある。
 
 それはまるで、おれのような面倒くさいオタクたちが酒を飲みながら「ここがこうなってないとスターウォーズじゃねえよなー!」とクダを巻いた結果のようだ。それでいて現代の映画に相応しく、主人公は独立心旺盛なヒロインと有色人種の脱走兵。完璧なバランス感覚。本当によく練られた作品だと思うし、現在公開されるスターウォーズのナンバリングタイトルとして申し分ない。まさにスターウォーズ以外の何物でもない、エピソード7として本当にソツのない出来だ。
 
 しかし。しかしである。
 
 ウェルメイドすぎるのだ。どうにも。
 
 スターウォーズは元々ひどく歪な映画だった。カリフォルニアの鬱屈したオタクのお兄さんが周囲の逆風に耐えながら無理矢理作った映画だった。その歪さは充分ビッグネームになってから作られたエピソード1にも受け継がれている。C-3POR2-D2を出しておけばみんな満足するんだから、グンガン族なんか出さなくてもよかったのに、良かれと思って出したジャージャーは世界中で大顰蹙を買った。いまいちミリタリーの匂いのしないデザインからはひとつもスターウォーズ的なシズル感はなかった。新三部作はその歪さゆえに今では半分なかったことになっている。
 
 しかし、とりあえずジャージャーは誰も見たことがないキャラクターだったのは確かである(見たかったかどうかは置いといて)。げっ、やっちゃったなこの映画、という瞬間は常にあって、でも正直、それはそれで面白かったし今となっては愛おしいのは事実だ。
 
 翻って「フォースの覚醒」。現状考えうる、スターウォーズの7本目としてはほぼ満点の出来だったのは確かだろう。しかし、そこに歪さはない。最高に頭のいいスタッフが血の汗を流して作った映画なのは間違いないと思うんだけど、「げっ、マジかよ」という要素はない。物語上のどんでん返しですらもそりゃそういう要素も必要だよなという感じで、なんだか行儀がいいのだ。
 
 スタッフが完璧な仕事をしているのは確かだし、それは本当にすごいと思う。ほぼ不可能な仕事をこなしたと思う。画面に散りばめられた「これがこうなってるとスターウォーズでしょ?」という目配せには恐れ入ったと言うしかない。
 
 だが、それは正直、視線が過去に向いた仕事であると言っても差し支えないとは思う。「ここがこうなってればOK」という、一定の条件をクリアするのが目的のような感触がちょっとあったのだ。確かにジャージャーは成功したキャラクターとは言い難いが、でも、おれには、エピソード7を見た後だとあの向こう見ずなキャラクター造形がちょっとだけチャーミングに見える。
 
 そういう意味で、「フォースの覚醒」はほぼ完璧な映画である。我々がエピソード6の続きの映画として期待するものは全て入っている。でも、スターウォーズって完璧な映画であることを望まれていた作品ではなかったのかもしれないなと今になって思う。二度と「歪なスターウォーズ」が作られることはないだろうという事実の前で、おれは少しだけ寂しくなるのだ。もう今までのどこか歪んでいて、それでもなんだか愛おしいスターウォーズは出てこない。完璧なマーケティングとブレインストーミングに基づいた、天才的頭脳集団が作った完璧なスターウォーズにおれたちは喝采を送ることになるのだ。
 
 めんどくさいですね、どうにも。