彩の国ビジュアルプラザはアラサーの映画おたくの楽園だった
埼玉県は西川口にある彩の国ビジュアルプラザ(以下ビジュアルプラザ)で開催されている「あそぶ! ゲーム展 ステージ1」。この展示も想像以上によかったんだけど、ビジュアルプラザ自体が非常に面白い施設だったので適当にまとめておきたい。昨日行ってきたとこで記憶もフレッシュですし……。写真が多いので適当に読み飛ばしてほしい。ちなみに写真は全部iPhoneで撮ったのでガタガタである。
公式WEBサイトに掲載されている地図だとこんな感じなので駅からそれほど離れていないように見えるがさにあらず。これがけっこう距離がある。車で10分くらいかかりそうな雰囲気。だがおれは車なんか持っていないので雨の中を淡々と歩いたのだった。
道中に貼ってあった標語。うむ。
30分ほどダラダラ歩いてようやく到着したビジュアルプラザ。思っていたより建物がでかくてビックリする。展示への入場料は大人510円。最初に買うチケット1枚で特別展示も常設展示も見られる。映像制作に関する展示/資料館兼、使用料を払うと使える撮影/編集設備が組み合わさった建物で、常設展示も映画に関するフロアとテレビに関するフロアに分かれている。ここで「あそぶ! ゲーム展」もやっているわけだ。
チケットを買って展示室に入るとスクリーンが張ってあってその脇に映画用の道具などが置いてあり、そこで平成ガメラ撮影当時の金子監督(若い)とかが映像制作の面白さとかを語る映像が流しっぱなしになっているのだが、その脇置いてある大道具とかがこれ。なんのメッセージなんだ……。
映画に関する展示フロアでは昔の撮影用器材とかが置いてあり、映画撮影技術の発達史、そして企画を立てて脚本やストーリーボードを用意して撮影して編集して……という映画製作のプロセスをわかりやすく学べる。基本的に子供向けなので誰が見てもわかるように解説されており、普通の映画オタクのおっさんが見ても「へ〜」となるような展示が多かった。が、まあ、それはいい。この施設のすごいところはそこではないのだ。
映画を撮る前には設定考えたり脚本書いたりストーリーボードを作ります、というのを解説するために置いてあるのが1992年版『ゴジラVSモスラ』の脚本と設定書。いきなり現物である。マジかよ。これ、おれが幼稚園の年長の時の映画である。いや〜、見た見た! バトラとかテレマガやらで何度も見たわ! 映画には連れてってもらえなかったけど! おれは怪獣映画ではガメラ派なのだが、余りにも世代的にドンピシャのタイトルがいきなりエントリーしてきたので思わず声が出てしまった。
その『ゴジラVSモスラ』の対面にいきなり貼ってあるのが『トラトラトラ!』の絵コンテ。オタク大喜びである。
『トラトラトラ!』に関しては途中で降板した黒澤明が描いた自筆の絵コンテも展示されている。さすが黒澤明、おっさんの顔の絵がうまい。それにしても「TOKYO PRINCE HOTEL」とある便せんっぽい紙に描かれているのが生々しい。ホテルに缶詰で描いたのだろうか……。
映画には小道具も必要ですよ〜というのを解説しているコーナー。これ、よく見ると……
ジュマンジじゃねーか! 埼玉に流れ着いてたのかよ!! あまりにもビックリしたのでこの画像だけはツイッターにアップしてしまった。
『メン・イン・ブラック』でJとかKとかが使ってた銃。なんで現物がこんなところにあるんだろう……。ちゃんとJが使ってた「めっちゃちっちゃいけどクソ威力があった銃」が置いてあるのが泣ける。
対面の展示が映り込んじゃっててなにがなんだかわからないが、これは『メン・イン・ブラック』でJとKが着ていたスーツ。本当になんで埼玉にあるんだ……
ゴジラのアニマトロニクス部分。これがスーツアクターの頭の上に乗っかってるそう。おれはゴジラおたくではないのでこれが何代めのゴジラの頭の中身なのかわからない……。あとアゴからなんか赤い汁が出ちゃってるのが怖い。
そしておれが最も度肝を抜かれたのがVFXの解説コーナー。いわゆるモーションコントロールカメラを使った特撮のやり方とかを解説しているんだけど……。
いきなりドーーーン!と立っているのが超名作『スターシップトゥルーパーズ』の機動歩兵の装備一式を展示したマネキン! なんで!? お前モーションコントロールカメラとか関係ないじゃん! 嬉しいけども! あとなんか手に持ってるモリタライフルがぐにゃぐにゃしてるけど大丈夫!? ちなみに右下に映り込んじゃってるのはこのマネキンの手前に置いてあるベンチみたいなとこに座っているおじさんの右肩です。このおじさん、なかなかどいてくれなかったんだよね……。
展示物に触ると怒られるけど、触らなければ寄り放題の写真撮り放題(ビジュアルプラザは個人で使用するなら展示物の写真を好きに撮っていいとのこと。太っ腹である)。なんたって周りは親子連ればっかりで、機動歩兵なんか誰も興味がないので延々粘っても全然平気。装備品は細部の作りがなんだかペナペナしてチープで、逆にそれが「これ本物のプロップなんだろうな……」という感じだ。モリタライフルがぐにゃぐにゃなのも、デフォルトでそうだったのだろう、きっと。
そしてその横にはモーションコントロールカメラで撮影するのに使ったという宇宙戦艦ヤマモト号の巨大なプロップが! これほんとでかくて、全長は3m近いサイズ。何度も言うけどなんでこんなもんが埼玉にあるんだよ……。
展示物の脇にちっちゃいパネルを置いてわざわざ「これは"あの"ロジャーヤングの姉妹艦だぞ!」と教えてくれるあたりが完全におたくの仕事。ロジャーヤングとかいきなり言われてなんのことかわかる人はまあ大体おたくである。アンタも好きねえという感じ。
もちろんヤマモト号も写真撮り放題。ありがてぇ……。間近で見ると本当に塗りとかディテールの作り込みが雑でマジメに模型作るのがアホくさくなる。
脇のテレビとかでこのプロップをどう使って実際の映像を作っているのかを解説しているんだけど、これが完全にただの『スターシップトゥルーパーズ』のメイキング。オタク大喜びである。というか小学生以下のキッズたちもわんさか来てる施設なんだけど『スターシップトゥルーパーズ』なんかをネタにして川口市にクレームとか来てないんだろうか。なんだか勝手に心配になってしまう。頑張ってほしい。
というわけで余りにも意外な展示物が多すぎて目当ての「あそぶ! ゲーム展」にたどり着くまでに記事が長くなりすぎたので、エントリを分けることにする。とにかく今アラサーの映画おたくなら行って損はない施設。駅からはちょっと距離があるが、はるばる歩くだけの価値はある。しかしこれだけの資料、本当にどこから集めてきたのだろうか……。ものすごく気になっている。
なぜ、EP7からスターウォーズを見た人には、ストームトルーパー"だけ"がダサく見えたのか?
まずこのエントリの前提として、以下の青柳さんのエントリを読んでおいていただきたい。
この青柳さんのエントリの途中で話題に上がっている「ていうか、ストームトルーパーのデザイン、ダサくないですか?」という疑問について、読んだ後にけっこう考えこんでしまった。この飲み会でペラペラ喋っているスターウォーズおたくBは何を隠そうおれなので知っているのだが、EP7からスターウォーズを見た2名は飲み会の現場ではXウイングやTIEファイターやファルコン号にはそこまで「ダサい」と言わなかったからである。ほぼ1977年のデザインそのままだったビークル類はよくて、けっこう各部にアレンジが施されていたストームトルーパーはダサく見えたのは何故なのか。
まず大前提として、スターウォーズEP7のアートワークはEP4〜6を下敷きにしているのは映画を見た人ならばわかると思う。EP1〜3と異なり、EP7はEP4〜6の後の世界を元にしている。だからメカや登場人物の服装やガジェットがその影響下にあるのは当たり前と言えば当たり前。しかも、EP7ではレイの服装がルークの初期スケッチを元にしていたり(初期段階ではルークはルーク・"スターキラー"という名前で、しかも女性になる予定だった)、レジスタンスの使うXウイングも主翼を閉じた時に上下のインテーク部分が円形になるラルフ・マクウォーリーの初期デザインを引用していたりと、オタク向けの目配せにも隙が無い。それらはEP4〜6を経た上でのデザインワークとしてかなり精度の高いものだったといえるだろう。これに関してはこのブログで以前にも書いた。
これらのアートワークの中でも、ビークル類の重要度は高い。そもそもスターウォーズは世界的にも「メカをデザインする」ということの意義を大きく塗り替え、その作業のウェイトを見直させた作品だと思う。
スターウォーズのメカデザインはひとつの発明と言ってもいい。以前から言われているように、ツルツルピカピカした宇宙船が主流だった頃に、汚れてボロボロになったメカを大量に登場させたのは大変にエポックメイキングなことだった。しかも、そもそものメカ自体の形状も強烈だ。細長い胴体の後方に前進翼っぽい形状の主翼を4つ取り付け、その主翼が開いたり閉じたりする、円盤状の胴体の前方に三角形が2個くっついてて操縦席が脇にくっついている、といったビークルたちの形状はやはり現在の眼で見ても斬新で、どうやってこんな形のものを思いついたのか、はなはだ不思議である。例えば遠い昔にデザインされたフォルクスワーゲンのビートルを今我々が見ても「あれはビートルだな」と認識し、ともすれば「かっこいい」と感じることもあるように、スターウォーズのビークル類はそのフォルムの独特さから登場した瞬間にパーマネントなデザインになってしまったのだ。
翻ってストームトルーパーである。「純白の装甲服に身を包んだエリート部隊」という設定は確かに1977年の時点では強烈にSFっぽかったのだと思う。マスクの人相もなんだか悪そうだし、ぱっと見ペラペラの装甲でも、ツヤツヤした表面に照り返すライトパネルの輝きはかっこいい(と思う……)。そしてそもそも、1977年には「歩兵がフルフェイスのヘルメットや防弾装備を身につけて戦う」というのが一般的ではなかったのも、ストームトルーパーの未来っぽさにつながっていたのだろう。今回の青柳さんのエントリにもあった「なんでカイロ・レンは防弾チョッキとか着てなかったの?」という疑問にもつながるけど、スターウォーズは元々兵隊があんまり防弾チョッキとかを着用していなかった時期の映画なのだ。
↑これは1973年ごろ、当時の新型装備であるALICE系列の装備品を身につけたアメリカ兵である。スターウォーズ公開4年前の装備なので、まあほぼ同年代ということでいいと思う。この写真をじ〜っと見た後に下のストームトルーパーを見ていただきたい。
どうだろうか。「み、未来〜〜〜〜!」って感じがしないだろうか。しなかったら申し訳ないが、このいかにも呼吸装置が収まっていそうなマスクといい、歩兵と言えば大抵ド緑色の服を着ているのに装備があえて純白一色な点といい、「げっ!これが帝国軍の兵隊なのか!」というインパクトがある気はする。
しかし、その後歩兵の装備は大きく様変わりしてしまい、兵士は年々重装備化。ボディアーマーや凝ったヘルメットをつけて戦うのは一般的になった。
↑『ゼロ・ダーク・サーティ』のDEVGRU。この装備が実際にビンラディン暗殺に使われたかどうかは諸説あるが、ひとまず整合性がある装備なのは間違いない。上のストームトルーパーと見比べると、現代の眼では「こっちのほうがSFっぽくてかっこいい……」というふうに見えるのではなかろうか。
つまるところ、ストームトルーパーのデザインは「人が着用して戦うもの」であったがゆえにパーマネントなものになれず、「ストームトルーパーとは何か」というお約束を共有していない人間にとっては単に古くさくてダサいものになってしまったのである。宇宙を飛び回る飛行機は現実に存在しないので非常に長持ちする存在感と説得力を手に入れることとなったが、歩兵はそもそも実在する存在であり、そして1977年から2016年の間に現実がストームトルーパーのデザインを追い抜いていったのである。
ファーストオーダーストームトルーパーのデザインをする上で、制作陣は相当迷ったと思う。現代的なデザインにすればストームトルーパーのニュアンスを取りこぼすが、さりとてEP6以降の物語を描く上で白い装甲服を着た敵の大集団は絶対に外せない。どちらを取るかという局面で、制作陣は「やっぱストームトルーパーがいないとスターウォーズじゃねえよな!」という結論に至ったのだろう。なのでEP7のスタッフは旧ストームトルーパーのデザインをブラッシュアップして線数を減らし、さらにアップル製品のようなツルリとした表面とシンプルさを与えた。さらにチェストリグを着用し予備マガジンを詰めた兵士を登場させ、帝国軍のブラスターにM4系のクレーンストックっぽいストックを取り付けることで「一応、現在こういう感じのタクティカルな装備があるのは知ってるんだよ」という目配せすら見せた。個人的には英断だったと思う。
というわけで、そもそも実在しないものをいきなりデザインしたビークルのメカデザインと、実在する人間に着せる衣装、それも歩兵用装備などという変化の激しいものをネタにしたストームトルーパーのデザインとでは、同じスターウォーズのアートワークでも劣化の速度が大きく異なったのではないかというのがおれの結論だ。別に軍事オタクじゃなくたって、現代の兵隊の写真や映像はニュースなんかで見るだろうし、それと比べた観客が「ダセぇ!」と思うことは止められない。それでもEP7の製作チームは「あのストームトルーパーのデザインラインに乗っかる」ことを決めたのである。つまるところ、EP7はそういう映画だったのだ。
この理屈で言うと、スターウォーズのビークルのデザインが古びることがあるとすれば、それは人類がハイパードライブを発明し実際にスターウォーズのように自由に宇宙を移動する頃だろう。そんな遠い未来でスターウォーズを初めて見た人達も、ビールを飲みながら「なんかワープ中の演出が現実と全然違うし、なによりダサくないですか!?」と議論を交わしたりするのかもしれないと思うと、ちょっと楽しい気分になるのだった。
でもいいの?ホントにそれで。『ヤクザと憲法』
ヤクザは社会のダニであり、反社会的集団であり、望んで犯罪者になった連中の集団なので容赦はいらない。奴らに人権なんかない。ヤクザにならない自由だってあるのに、すすんでヤクザになった人間なのだから、全てのリスクは本人が負うべきだ。
もっともだ、と思う。しかし、その一見もっともな意見に対し「ホントに?」と切り込んでいくドキュメンタリー映画が『ヤクザと憲法』である。なぜ憲法か、と言えば、はっきり言って現在のヤクザは憲法14条に規定された法の下の平等の埒外に置かれているからだ。
本物のヤクザである大阪の指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」の事務所に東海テレビのスタッフが入り込み、長期間の取材を経て完成したこの映画には、現在のヤクザの生々しい生活がそのまま映っている。夏場には事務所のテレビで高校野球を観戦し、「ヤクザも高校野球見るんだ……」と思った次の場面では試合を見ながらなにやら札束を封筒に小分けにしているヤクザのおっさんが映る。彼は「何をしているんですか?」というスタッフの質問に対し「野球や。高校野球」と短く答える。高校野球に関する小分けにされた札束……。意味深すぎる。
また、飯を食っているヤクザの携帯が突然鳴り出し、短い会話の後にどこかの住宅地へ車で入っていくシーンもどぎつい。住宅の入り口で「なにか」を手渡し、「なにか」を受け取って車へ戻ってくるヤクザに対し、取材陣は「覚醒剤ですか?」とノーガードの質問をぶち込む。「まあそう思うんならそうなんじゃないですか……」という感じで言葉を濁しつつ車を運転するヤクザ。我々が想像する「ヤクザのシノギ」にかなり近いシーン。このあたりは「ヤクザの実態を追ったドキュメンタリー」に期待されるような見世物小屋的な要素を満たしていると思う。
しかし、事務所で部屋住みの若い衆が寝泊まりしている部屋に置かれているのはなにやらかわいらしい動物(犬とかネコとかだ)の写真集。一見ヤクザの事務所には似つかわしくない本だが、聞けば服役中は大変つらいのでこういったかわいい動物の写真を見て癒やされるのだという。また、前述の「高校野球に関する現金が入った封筒」を放り込んでおく袋はサーティーワンのビニール袋だ。ヤクザだってつらいときは動物の写真集に癒やされるし、サーティーワンでアイスを買って食ったりするのである。
このように取材陣はヤクザの事務所でカメラを回し続け、ヤクザたちの妙に人間的な瞬間を捉える。ヤクザと言っても大半は40〜60代のおっさんばかりであり、ヒマそうに事務所でお茶を飲みながら世間話をする姿は近所の気の良いおっさんといった感じである(小指がなかったりするが)。年の瀬には紅白歌合戦を見るし、普通の人間に混じって外で飯を食ったりするのである。しかし、時には下手を打った若い衆をシバき倒し(余談だがこのシーンでは部屋の中にカメラは入れてもらえない。声だけでも充分怖かった)、ヤクザには欠かせない義理ごとに赴くときはビシッとしたスーツに着替えたりする。
現在の彼らは暴対法によって非常に理不尽な目にもあう。保険に入れず銀行口座も作れず、口座から引き落とせない給食費を現金で学校に持っていくから子供の親がヤクザというのが一発でバレる。とにかくやることなすこと全て制限されており、画面からもヤクザらしい羽振りの良さはまったく見られない。交通事故のために保険を適用しようとしたヤクザが逮捕され、大阪府警のマル暴が事務所に乗り込んでくるシーンは本作の白眉だ。どちらがヤクザだかわからないくらいの恫喝が取材陣にも及び、思わず見ていて首をすくめるほどのスリルである。ことほどかように、ヤクザは今弱っているのだ。
ヤクザを弁護する弁護士だって無関係ではいられない。山口組の顧問弁護士は山口組の顧問弁護士であるというだけで弁護士資格を剥奪され、廃業に追い込まれる。『ヤクザと憲法』の後に公開された『ブリッジ・オブ・スパイ』では冷戦期のアメリカでソ連のスパイ(ヤクザどころではない激ヤバ弁護対称である)を弁護することになってしまったトム・ハンクスが主役だったが、あの映画ではアメリカ国民にとって唯一にして最大の規範である合衆国憲法に基づき、あくまで人間としてソ連のスパイを弁護する弁護士がヒーローとして描かれた。現在の日本で起きているのは1960年代のアメリカよりも後退した事態ではなかろうか。
この映画で強烈だったのは「ヤクザも人間」という、当たり前の事実だった。おれは大学の時に『仁義なき戦い』を見てからヤクザ映画の面白さにシビれ、ヤクザ史を読みあさるうちに(面白いんですよこれがまた……)彼らをフィクションとして消費することに慣れきっていた。思えばヤクザはニンジャもサムライもいない現代の日本に残された、最後のファンタジーのひとつである。それが証拠にハリウッド映画でウルヴァリンやプレデターと渡り合う日本人は皆ヤクザだ。それらを面白がっているうちに、彼らはスパイダーマンやエイリアンと同じ枠に収まってしまっていた。それは「自分とは次元の違う存在」という枠に押し込めることで無関係の存在と見なす、一種の思考停止だったのではないか。
しかし、当然ながら彼らは人間である。ネコの写真集も見るしサーティーワンにも行くのだ。そして現在の法体系の下では彼らが満足に人間らしい生活ができるかと言えばそうではない。
この映画に登場する若い部屋住みのヤクザは、元は引きこもりだったのがドロップアウトしてヤクザになったのだという。大晦日に事務所で紅白歌合戦を見ながら老ヤクザに諭されていた彼は結局ヤクザを辞め、食うに困ってコンビニ強盗をやって捕まっていたそうだ。
昨日"ヤクザと憲法"というドキュメンタリー映画を観た。引きこもりで拾ってくれるところがヤクザしかいなくてヤクザになった21歳が登場してた。 彼を調べたら、去年6月に組を辞めて生活出来なくなりコンビニ強盗して懲役7年になってた。ヤクザはある意味セーフティーネットなんだなと思った。
— Keiji Isogimi(五十君圭治) (@kaerudisny) January 17, 2016
あの部屋住み君、不器用そうだったもんな……。と思う反面「ヤクザがセーフティーネットになってる社会ってどうなんすかね」とも思う。この「どうなんすかね」という感じは取材陣による「ヤクザを辞めたらいいのでは」という質問に対する清勇会の川口会長による「どこで受け入れてくれる?」というヘビーすぎる逆質問へと行き着く。おれにはこの質問に対する回答は用意できない。
ヤクザは社会悪であり屑である、と断罪するのは簡単だし単純だ。そしてこの映画はその単純さに対し「でもいいの?ホントにそれで」と鋭すぎる問いを突きつける、極めてシャープな作品だった。
そしてストーリーは続く 『ストレイト・アウタ・コンプトン』
ちょっと遅くなったが映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』の感想である。
本作はヒップホップの歴史にその名を残すギャングスタラップのオリジネイター、N.W.Aの伝記映画である。時は1986年、全米への麻薬流入が大問題になっていた時期で、その流通ルートの末端に位置するゲットー住まいの貧乏黒人たちは度重なる警官からの暴行に晒され、道に突っ立ってるだけでボコボコにされることもしばしば。そんな中、全米最悪の治安を誇るロサンゼルス近郊のコンプトンでくすぶる若者たちがいた。
ドラッグのディーラーとして金を稼ぎながらその商売が長続きしないことを悟り現状をなんとかしたいと考えるイージーE、レコードおたくでクラブでDJをやってる時以外は無職(妻子あり)のDr.ドレー、真面目な学生ながら暴力に満ちたゲットーの日常を記しつつたまに警官にボコられたりするアイス・キューブ。彼らを中心に結成されたグループ「N.W.A(Niggaz Wit Attitude、主張する不良黒人みたいな意味)」はこれまでにないド直球のバイオレンスやゲットーの日常が綴られたリリックと、攻撃的でありつつどこかけだるさも感じさせるトラック、本物のギャングにしか見えない(ドラッグの売人がメンバーなんだから当たり前だ)見た目も相まって一気にのし上がる。
が、ギャラの分配の契約を巡ってグループは破綻。泥沼のディスり合いを経てなんとか再結成の兆しを見せるが、フロントマンのイージーに病魔が迫りつつあった……というようなお話。
ヒップホップというのは音楽のジャンルだと思われているが、実のところ音楽だけを聞いていてもそこまで面白いものではない。リスナーは「○○と××がめっちゃケンカしてる!」とか「△△が□□のレーベルに入った!」とか、そういう周辺の人間関係やストーリーをトータルで消費してシーンの状況を把握し、その中で生まれる音楽がパッケージして売られている、というのが実のところだ。そういった周辺事情が巨大なストーリーを組み立て、いつしかヒップホップには40年ほどにわたる長大な歴史が編み上げられていった。様々なプレイヤーが入れ替わり立ち替わり登場しては新しいテクニックを生み出し、チームを組み、仲違いし、バトルを繰り返す様はどちらかというと音楽というよりアメコミやプロレスやガンダムや三国志に近い楽しさがある。ルックがマッチョなのでわかりにくいが、ヒップホップは実は結構オタク向けのジャンルなのだ。
そういうジャンルの中で、N.W.Aはひとつの特異点と言えるグループだ。なんせ西海岸のヒップホップが隆盛するきっかけをもたらした上、メンバー同士の過激な内戦や、ド底辺から成り上がったイージーEの悲劇的な死に様、キャラが立ったメンバーそれぞれのカリスマ性などは現在の眼で見ても充分魅力的。この映画ではそのあたりの面白さを存分に描いており、ストーリー自体は成り上がったミュージシャンにありがちな話ながら、『Fuck the Police』を巡る警官とのバトルやビッグになった後のまさしく酒池肉林の狂騒、メンバーそれぞれの挫折や葛藤などを猛烈に魅力的に見せてくれる。
そしてメタ的に見れば、大変興味深いのがこの映画はN.W.Aの元メンバーが協力/主導して製作された点だ。製作に名を連ねるのはDr.ドレー、アイス・キューブというN.W.A元メンバーの筆頭2人。さらに劇中随一の悪役として映画に登場するデス・ロウ・レコードのシュグ・ナイト本人が撮影現場に乱入、車で俳優を轢き殺して服役するという、映画本編並みにインパクトのある事件も起こしている。
HIPHOP界の帝王シュグ・ナイトが轢き逃げ後に殺人容疑で逮捕
かつての自分たちの栄光と挫折の日々を元メンバー本人たちが製作した映画で物語るという自己言及的な構造は非常にヒップホップ的であり(とにかくヒップホップの人達は自分たちのことをラップするのが好きだ)、さらにその映画で悪役にされた人間が撮影現場で殺人事件まで起こすのに至ってはさながらギャングの抗争だ。この『ストレイト・アウタ・コンプトン』がN.W.Aの元メンバーたちによって製作され、途中でシュグ・ナイトが大暴れし、さらに映画が大ヒットしたこと自体がヒップホップ史、そしてN.W.Aのヒストリーの一部になるという構造を備えているのだ。『ストレイト・アウタ・コンプトン』はN.W.Aの伝記映画であると同時に元N.W.Aメンバーが直接作った映像作品でもある。
その意味において、この映画の存在自体がN.W.Aとそのメンバーたちの歴史がまだ終わっていないことの動かぬ証拠となり、映画本編を見た今となってはまさしく「歴史を目撃した」という感慨がある。映画は終わっても彼らのストーリーはいまだに続いており、それは現在まで地続きなのである。『ストレイト・アウタ・コンプトン』を見た我々も、N.W.Aのヒストリーの肥やし程度にはなったのかもしれないと思うと、なんだかちょっと嬉しくなるのだ。
さようなら、スターウォーズ。初めまして、スターウォーズ。
想像してほしい。
感動をありがとう 『グリーン・インフェルノ』
「日本を元気にしたい」と言いつつ「ぃぃいらっっしゃっせーーーーーーぃ!!」と客に向かって怒鳴るような接客をする居酒屋。「感動を届けたい」といいながら競技に臨むアスリート。「勇気をもらいました」という映画の感想。おれはこういったものを見るだけで毎回律儀にウンザリしている。居酒屋の店員の声は大きすぎるとこちらの会話がしにくくなるし、感動はこっちで勝手にやるから運動の選手は競技に集中してくださいよと思う。
そんなおれだが、今日はイーライ・ロスから本当に感動をもらってしまった。最新型食人族ムービー『グリーン・インフェルノ』を見たのである。
「アマゾンの少数民族が開発によって住処を奪われ、虐殺されている!」と義憤に燃える学生団体が開発のひどさをスマホで撮影、SNSで動画を拡散しようと現地に飛ぶも、復路で飛行機がジャングルに墜落。落ちた飛行機の周りを学生たちがうろうろしてたらどこからともなく毒矢が飛んできて、気がついたら人食い土人の集落の中。かくして意識の高い学生たちが一人また一人とアマゾンの未開の部族で丸焼きにされたり刺身にされたりしてバクバク食べられてしまうのだが——というお話。
なんといっても近頃話題の人食い族映画である。かつては「人食い族」といえば「恋愛」「アクション」「SF」に並ぶれっきとした映画の1ジャンルだったけど、最近では『食人族』のブルーレイの発売がずれ込んだりガルパンの予告で揉めたりとトラブルに事欠かない。という状況下でありながらフタを開けてみればこの『グリーン・インフェルノ』は超剛速球のカニバリズム映画で、この開き直りっぷりにはもうゲラゲラ笑うしかない。なんつっても主人公の学生たちをバリバリ食べちゃう人食い族の造形が見事で、めちゃくちゃにガチ度が高い。聞けば本物の現地少数民族の人たちなんだそうで、みんなものすごくイイ顔をしており、またこれが美味そうに肉を食べるんである。人肉だけど。
意識高い学生サイドの描き方もすばらしい。団体のリーダーはSNSとiPhoneを使いこなすヒップスター的な奴で、同じ団体のなかに彼女もいるような、一種のカリスマ。だけど映画が進むにつれてこいつがほんとにとんでもない奴だということが判明していくのは、人肉食シーンとならぶこの映画の大きな見所のひとつだ。そんでもって携帯とインターネットとバッテリーを奪われて未開の地に放り出された意識だけ高い学生たちの弱いこと弱いこと。おれだってアマゾンのジャングルで人食い族の前に放り出されたら似たようなもんだと思うが、とにかく高い意識の裏側に独善と傲慢を隠し持った現代的な若者たちがバンバン景気よく死んで食われるので大変溜飲が下がる!もっと殺れ!キルエムオール!!
というわけで本作においてイーライ・ロスは触るものみな傷つける巨大電気ノコギリのような偉業をなしとげている。主人公ら学生たちもいけすかないクソ野郎だし人食い土人は元々意思の疎通がほぼ不可能。返す刀で観客にも「お前らだってこの学生どもとそう変わんねえんだよ」と切りつける。『グリーン・インフェルノ』は娯楽性の高いカニバル映画であると同時に優れた現代社会への批評でもあるのだ。ジャングルの緑はどこまでも美しく撮影されており、そこを開発する重機や警備のPMCたちはひどく禍々しい。それを自らの自意識を満たすためだけに「告発」しようとする軽薄な学生グループ。そしてそこに人食い土人とフルスロットルの人体損壊。『グリーン・インフェルノ』に詰め込まれているのは現代社会を構成する要素そのものだ。人食い族映画でこれをやるのは恐ろしいバランス感覚だし、やっぱりイーライ・ロスは心底真面目な人なんだろうと思う(余談だけどこの内容の映画のエンドクレジットで出演俳優のツイッターのアカウント名を入れるのとか批評性超高いと思う)。
しかもこの映画、部分的にはコメディなのである。人類史上最もオナニーが困難な状況でのオナニーのシーンでは客はゲラゲラ笑ってたし、画面には常にギリギリすぎるユーモアの気配が漂っている。頭から人間が食われているのに。この不思議な空気感は是非とも映画を見て確かめていただきたい。
やれポリティカル・コレクトネスだ人道的配慮だと喧しい昨今に、これだけ直球の人食い族映画を制作したイーライ・ロスは敬意に値する。この映画からは「客を本気でビビらせたりドン引きさせたりするにはこれくらいやんねえとダメなんだよ!!」というスタッフの気合が充満しているのだ。間違いのないプロの仕事であり、そしておれは前述のような構造を組み込みつつも優れたエンターテイメントとしてこの映画を完成させた彼らの仕事ぶりに感動をもらったのである。偉いよあんた達!
とはいえ、ハチャメチャな人体損壊シーンてんこ盛りなんで人によっては全くダメな映画だと思う。無理は禁物だが、それでも見られるならなんとかして見たほうがいい。見世物小屋的な興奮と優れた社会批評のハイブリッドなんてなかなか見られるものでもないし。もしちゃんと見れば「ワシは『グリーン・インフェルノ』を劇場で見たんじゃよ……」と孫の代まで自慢できる、そんな気分になる1本なのだ。