Everything's Gone Green

感想などです

スターウォーズが怖い

 スターウォーズの新作が怖い。かつてない恐怖を感じている。たかが映画をなんでこんなに怖がらなくてはならないのかよくわからないけど、それはおれの中でスターウォーズは「たかが映画」ではないからなんだろう。EP7の公開まであと2ヶ月あまりとなったところで、現在の心境を記しておきたい。

 

 そもそも幼稚園の頃に見たEP4は生まれて初めて見た実写映画で、銃で撃たれて人が死ぬ映像を見たのも、戦闘機と一緒に吹き飛ぶパイロット(特にジェック・ポーキンス)の映像を見たのも、なにもかもをEP4で初体験した。家にあったブロック(我が家はダイヤブロック派だったし当時はスターウォーズのレゴなんてなかった)で幼稚園児だったおれはXウイングを作りまくり、ダース・ヴェイダーに心底恐怖した。

 

 そんなおれは現在28歳。世代的には特別篇〜プリクエル世代のど真ん中で、特別篇は小学5年生の時、EP1公開が中学校の1年生の時で、EP3を大学の1年生の時に見ている。EP2だけはいまだにいただけないが、EP1はそこまで嫌いじゃないし、EP3は大好きだと胸を張って言える。EP1だってジャージャーがアレなのはまあそうなんだけど、でもおれにアメトイを買いあさり横や斜め後ろから映画を見ることを教え、海外のSFファンダムの層の分厚さを叩き込んでくれたのはEP1だった。大体「ジャージャーがうぜえ」ってネタだって、そう言っとけばファンの間の定番ネタに乗っかってる感じが出るからそう言ってるんだろ?って奴ばかりだ。そこまで大騒ぎするほどウザいわけでもないと思うし(ウザくないわけじゃないけど)、アーメド・ベストがイベントに呼んでもらえないのはかわいそうすぎると思う。

 

 ざっくりとおれのスターウォーズ遍歴をまとめてみた。本当にざっくりだけど、まあおれが大層心の広いファンであることは分かってもらえたかと思う。しかし繰り返すがそのおれがEP7に対しては非常に恐怖し、かつ現状に憤っているのだ。

 

 こないだEP1公開直前に出版された『スターウォーズ完全基礎講座』という名著を呼んでいた。R2の発する電子音を解析して何を言っているかを考察するコラムとかが掲載されているキチガイじみた本なんだけど、そこで書き手が「今年で31歳になるスターウォーズ直撃世代だ」というような自己紹介をしている文章を読んでハタと考え込んでしまった。

 

 31歳。今おれは28歳。そしてこの本は1999年のEP1公開直前に出版されたものだ。

 

 つまるところ、1999年はスターウォーズが1977年(日本だと1978年か)に直撃した時に少年だった人々が、今のおれくらいの、アラサー的な年齢だった年なのだ。1999年には中学生だったおれには「ダース・モールかっこいいよなー!」で通過できたEP1も、彼らからすると悲惨な思い出だったのかもしれない。ジャージャーが嫌いで嫌いで仕方ない人も、いても仕方ないのかもしれない。

 

 1999年にアラサーだった人たちはアラフォーになり、1999年に中学一年生だったおれは28歳になってしまった。そして今まさに1999年にアラサーだったオタクたちが感じていたものと同質であろう期待、そして圧倒的な恐怖を感じている。生まれて初めて味わう恐怖だ。先達としての意見を伺おうとしても、すれっからしのアラフォーのスターウォーズプロップおじさんたちは「EP7? つまんねえに決まってんだろ! ガキはおうちに帰ってママとクッキーでも焼いてな!! おれはバンダイのキット組むからよ!」と取りつく島がない。まわりの同世代のオタクたちもスターウォーズなんかロクに見ていないし、スノッブでオシャレで海外のオタクみたいなノリが売りの"映画クラスタ"の皆さんは、やれ吹き替えが芸能人だ字幕が戸田奈津子だ公開スケジュールがウンコだ宣伝がクソだディズニー死ねと周辺事情をツイッターで叩いてまわるのに忙しいのでおれみたいなオタクと話をする余裕はなさそうである。なんだか一番割りを食っている気がしてくる。孤独だ。

 

 以下はアラフォーの公開当時組でもなければ、溢れる知識とセンスを武器にインターネットで暴れ回る"映画クラスタ"にもなれない、どっちつかずのおれが思うEP7の恐怖についての文章である。

 

 今回のEP7、今までに公開されているデザインや予告を見る限りでは製作チームが相当ハイレベルなデザインワークをこなしているのは確かだ。ラルフ・マクウォーリーとジョー・ジョンストンという偉大すぎる2人のアーティストが'70年代の後半に残した仕事を徹底して解析しトレスして、現在の目で見ても通用し、しかもEP4〜6のその先にありそうなデザインを実現しているように見える。ファーストオーダーストームトルーパーのデザインのハイコンテクストぶりはすさまじいし、カイロ・レンのルックスからは「部品点数を極限まで減らして純度を高めたシスの暗黒卿」というコンセプトがビンビンに伝わってくる。例え映画が「JJエイブラムスのスターウォーズ撮影ごっこ」だったとしても、彼らは非常にいい仕事をしているのだと思う。

 

 でも国内ではスターウォーズはもう2線級のコンテンツに成り下がってしまった。EP7のプロモーションの現場には恐らく1977年の公開当時を知っている人間はほとんどおらず、後からとってつけたようなクソみたいな上滑りしたプロモーションと空虚なコスプレでのお祭り感だけがコンテンツとしてのスターウォーズの死臭をまき散らしている。リンクを貼るのも忌まわしいので各自でググって辿り着いてほしいが、BRUTUSスターウォーズ特設サイトはそれらすべての極北、グラウンドゼロ、視界いっぱいに広がるこの世の地獄である。「みんな、スターウォーズが好きで好きでたまらない」じゃねえんだよ! お前はここで死ぬんだよ!!

 

 ハズブロを中心としたマーチャンダイズのダメっぷりもキツい。ここ数年ハズブロは明らかにパワーダウンした熱量の低いフィギュアしかリリースできなくなっており、雑な関節構造、減り続ける付属品、残念な塗装と三拍子揃ったトイばかり連発していたが、スターウォーズのようなフラッグシップタイトルでもその調子なのかとクラクラした。何がフォースフライデーだ。売らないほうがマシみたいなクソみたいなオモチャをドヤ顔でバラまきやがって……。

 

 国内国外含めてどいつもこいつも悲惨な駄玩具ばかり売るなかで、かつてのガルーブ復活の狼煙となるのか、「マイクロマシーン」のブランド名、そしてキャラの頭がガバリと開いてジオラマになるタイプのクレイジーなシリーズが復活したのだけがめでたい。まあオモチャでネタバレ喰らうのイヤだからまだ買ってないんだけどさ……。

 

 これで、これで映画本編がひとつの文句もないくらいめちゃくちゃ面白かったらなんの問題もない。でもそれはまさしくデススターの排気口にプロトン魚雷が滑り込むような確立の低さだろう。もうおれはEP1の時のような純朴な岐阜県の中学生ではないし、スターウォーズをきっかけにして色々と映画に文句をつける見方を覚えてしまった。多分、どこかしら「え〜〜〜っ!?」という箇所を見つけてしまうだろう。そしてスターウォーズは死んでしまったとリアルでもインターネットでも騒ぐことだろう。

 

 そういうキツい通過儀礼を経て人は段々、スレたアラフォーの特撮プロップおじさんへと変化していくのだ。悲しいがそれが人生なのだろう。我々は(というかおれは)まさに今スターウォーズに人生を教わっているところなのかもしれない。ありがとうスターウォーズ

ディテールの地獄 『野火』

 ちょっと前になるけど塚本晋也版の『野火』を見た。以下は感想。

 


映画『野火』 Fires on the Plain 予告編 - YouTube

 

 太平洋戦争末期、レイテ島で1人の兵隊が体験した戦場の様相と、「めちゃくちゃな極限状態に置かれた時に人間を食えるか」というものすごい問いをぶつけてくる大岡昇平の同名小説の映画化。

 なんだけど、この映画では徹底して大局が描かれない。そもそもレイテでの日本軍の話だというストーリーの前提が説明されない。熱帯のジャングルっぽいところのど真ん中で、見るからに弱そうな日本兵のおっさん(塚本監督本人)が結核になった、というところからいきなり話が始まる。

「ロクに働けねえ奴を部隊に置いとけねえよ、病院行けよ」という上官の言うことを聞いてなけなしのイモを持って病院に行ったら「これっぽっちでここには置いとけねえよ。出てけよ」と言われ、たらい回しにされたあげく日本兵のおっさんは部隊から放り出されてしまう。

 

 そこから先、彼はフィリピンのジャングルを頼りなげにうろつき、現地のゲリラや米軍機の機銃掃射に追い回され、ついには現地人まで殺してしまうのだが、そこでも徹底してカメラがフォーカスするのはディテールだ。死体にたかるウジのツヤや掘り出して食う芋の不味そうさ加減やまとわりつくハエの羽音といった強烈なディテールの連打は、映画を見ている者に奇妙な没入感を与える。

 

 濃密なディテールの描写は中盤の米軍陣地からの機銃掃射シーンでひとつのピークとなる。機関銃の当たった兵隊の腕はちぎれ、顔面は吹き飛ぶ。ここまで「不意に機関銃の掃射を受けた歩兵部隊はどうなってしまうか」が生々しく、歩兵自らの視点で描かれた映像は『プライベート・ライアン』以来だと思う。視点はとにかく低く、映画を見ている者をかすめるように弾丸が飛ぶ。鑑賞者は兵士と共に血まみれの泥まみれになることで傍観者のポジションから引きずり下ろされ、気がついたら「ああ、ここはこういうところだからこうなっても仕方ないなあ。食い物もないしなあ」という感覚を知らず知らずの内に受け入れてしまう。

 

 詰まるところ、『野火』は極めてテーマパーク的な作りの映画だ。状況の説明はなく、ひたすらディテールが連打されることによって観客を観客の立場でいられなくし、容赦なくフィリピンの地獄に引きずり込む。で、引きずり込まれた地獄の底で、観客も劇中の日本兵と一緒に「う〜ん、人肉か〜〜。確かに食っちゃえというのもわかるけどそれはちょっとどうだろうなあ〜〜〜〜」という煩悶を突きつけられるわけである。これは重い。なんせ観客にとっても生きるか死ぬかがかかった目前の問題だ。切実である。

 

 『野火』はそんな異常なドライブ感のある映画であり、その点において凡百の反戦映画とは構造的に大きく異なる。なんせレイテ戦末期における日本兵の倫理観を強制的に追体験させてしまうのだ。外野から戦争反対を訴えるのとは訳が違う。見終わってから「ここが現代の渋谷でよかったなあ……」としみじみ思った。なんせキツい映画なんでそう何度も見られないけども、5年に一回くらい見たくなる映画だとは思う。

 

 しかしそれにしても日本兵は大変だ。絶対にあんな目に遭いたくない。心の底からそう思える一本だった。

たまたまi☆Risのライブを見たらすごかったという話

 先週末のワンダーフェスティバル、そこでi☆Risのライブがあったので見に行ったのだけど、これがまあ本当にすごかった。平たく言ってビックリした。普段からアイドル文化に触れている人からすれば「今更何言ってんの?」という話だとは思うが、本当に驚いたのである。

 

 

 おれは長らく(今も)アイドルというものにあまり縁のない生活をしてきた。一応オタクをやっていると思うのだけど、アニメを見たり本を読んだりゲームをしたりオモチャを買ったり映画を見たりプラモを作ったりはしたけどアイドルに入れ込むというのは全くやっていない。オタクでもなんでもない人に「gerusea君、オタクなんだ〜。じゃあやっぱりAKBとか好きなの〜?」みたいな雑な話の振り方をされるたびにイライラしたりしていた(今は「あれは話すことがなくてあの人も困ったんだろうな」と思っています)。前提として、そういう、まったくアイドルカルチャーに免疫のないままにアラサーになってしまったオタクの話であると前置きしておきたい。

 

 話はズレるが月村了衛という人の機龍警察という警察小説兼SF小説のような小説がある。ほぼ現代の日本だが機甲兵装というボトムズのATのような二足歩行兵器が存在する点だけが現実と異なるという、テロが頻発するようになった世界を舞台に、警察に組織された最新型機甲兵装運用部隊の苦闘を綴ったとても面白い小説のシリーズなのだが、昨年以来おれはこのシリーズにどっぷりハマっていた。で、この機龍警察のファンの皆様のツイッターでの発言を検索して掘り出しては読むようになったんだけど、当然ながら四六時中機龍警察の話だけが出てくるわけではなく、他の作品についての話も多い。その中で集中的に話題に上るタイトルに『プリパラ』があった。

 

 『プリパラ』は、カードの発券機兼リズムゲームが遊べるゲーム筐体と連動した女児向けアニメである。登場人物の少女たちがオンライン上の仮想空間にアクセスし、自ら衣装を選んでアバターを作成、そのアバターでアイドル活動を行なう中で仲間を増やしたりライバルとしのぎを削ったり……という女児向けアイドル版マトリックスのような話だ。しっかりしたストーリーの土台、クレイジーな脚本、異常にキャラの立った登場人物、3DCGならではのフィギュアっぽい可愛さのあるダンスシーンなど、見所が豊富でトウの立ったオタクのおっさんが見ても充分に面白く、特にネット上の集合意識が生み出した電子的な生命体であるファルルの死と原始宗教の発生、そしてそのファルルの復活と「友達」への変化を描いた第一シーズンの最後のあたりは毎週ウンウン唸りながら見ていた。おれはインターネットから教えてもらった『プリパラ』を大変面白く観賞していたのである。

 

 この『プリパラ』の主要登場人物の声優を務めているのがi☆Risだ。合計で6人、いずれも声優兼アイドルとして活躍しており、バラバラに『プリパラ』以外の作品に出演したりしている。声優兼アイドルのような人はたくさんいるけど、i☆Risはどちらかというとアイドル色が強いらしく、前述のワンフェス会場でも「i☆Ris」というグループ名が大書されたマフラータオルを羽織っている人をちょいちょい見かけた。全員うちの妹よりもずっと年下の女子の集団である。それがワンフェスでグッスマのブースでちょっとしたライブをやるという。『プリパラ』は面白いしどんな人が出てくるか気になるし、話の種に見てみるか、という感じで、おれは本当にすごく軽い気持ちで会場に出かけていったのだ。

 

 ここからは『プリパラ』に関しての説明は省く。

 

 ステージが始まる前に司会の鷲崎健がいろいろと注意事項を言う。「写真撮るな」とか「暴れるな」みたいな内容で、逆に言うとそれを言われないとそんなめちゃくちゃ動く奴がいるのか……世紀末かよ……と思ったのもつかの間、i☆Risの皆様が登場となった。普通に「こんにちは〜」みたいな感じで登場する6人。「あれ、普通にアイドルだ……」と思った次の瞬間、間中らぁら役の茜屋日海夏さんの「かしこまっ!」が飛び出した。

 

 その瞬間、おれはなんかよくわからない感覚を味わった。テレビで聞いた声とテレビで見た動きが同時に生身の人間から発される。それによってさっきまではただのアイドルっぽい衣装の女の子にしか見えなかった人が、なにか一枚別のレイヤーが重なったように感じたのだ。その後も続く芹澤優さんの「ポップ、ステップ、げっちゅー」で完全に自分が何を見ているのか分からなくなった。アニメの人と同じ動きで同じ声の人がそこに立っている……。この人は一体誰だ……? おれは何を見ているんだ……? いや、声優さんのライブなんすけどね。それは分かってるんですけど。

 

 全員で「ミラクル☆パラダイス」を歌った後、山北早紀さん、澁谷梓希さん、若井友希さんが「ドレッシングパフェで〜す!」とステージに登場した時におれの混乱は頂点に達した。え!? 君たち中の人じゃないの!? 『プリパラ』って一応アニメでしょ? 君たちは生身の人間でしょ!? しかし、聞こえてくる声が同じなので説得力がすごい。だんだん「動きと声がアニメと同じ人たちがそう言うならそうなんだろう」という気分になってくるし、ご丁寧にメイキングドラマ的な演出もある。それらに一々「これテレビで見たやつだ……」と思ってしまった。そのままの勢いでなだれ込む「CHANGE! MY WORLD」。テレビで聞いた曲をテレビで見た動きで歌う3人。横でコールを怒鳴るオタク。なにがなんだかわからない。

 だが、この後にSoLaMi♡SMILEが「SoLaMi♡SMILEで〜す」と登場した時には、もはやおれは「そういうもの」としてステージ上の状況を受け入れていた。現実と非現実の境界線はブレストファイヤーを食らった機械獣のようにドロドロと溶けていき、ただひたすら「あっ今の動きテレビで見た」「テレビで聞いた音だ」「今の動き可愛かった」「つーか全部可愛い」と、呆然としながら動きと音声だけに反応するお猿さんのようになってしまったのである。反省している。

 

 この力業で現実と非現実の境界線を破壊する行為は多分、タイガーマスク時代の佐山聡がもたらした衝撃あたりとかなり近い気がするが、プロレスを引き合いに出してアイドルを語れるほどおれは両者に詳しくないのでやめておく。しかし、手刀でビール瓶を真っ二つにする大山倍達、南米で見つかったナチス残党の隠れ家、横田基地の基地祭で普通に屋台を出していたフリーメイソンなど、フィクションで馴染んでいたものを実際に目の当たりにした時の「ああ、やっぱりこの人は実在したんだ! プロレスラーはやっぱり強いんだ!」という感覚はなかなか味わえない、とても貴重なものだ。フリーメイソンと違って『プリパラ』は元からフィクションだから感慨もひとしおである。おれにとって、このあたりの驚きがものすごいものだったわけだ。

 というような話を知り合いにしたところ「同じ事を最近ラブライブ!にハマった奴が言っていた」と言われた。なるほど確かにあれも本編と同じ声優が歌って踊っている。タイガーマスクが9人もいるようなものだ。そりゃ人気が出るわけである。

 

 で、とりあえずもう一回ちゃんと楽曲を聞いてみようと思い、アルバム「we are i☆ris!!!」をitunesで買って目下聞いている。恐ろしいのは段々とおれの中で「あれ、もっかい見てえな……」という気持ちがムクムクと湧いている点だ。近い将来、おれはまたi☆Risを見に行ってしまいそうな気がする。その時おれはどうなってしまうのかさっぱり読めない。始まりは機龍警察だったのにずいぶん遠いところに来たものだと思いながら聞く「Love Magic」は、それはそれでまた複雑な味わいがあるのであった。

Love Magic

Love Magic

 

因果地平の果てまでかっ飛ぶ、低予算ホラーの星 『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』シリーズ

 巷で話題の『コワすぎ!』シリーズをとりあえず最終章まで見た。一応ここで一区切りである。

 

 

 東京で暮らしていると、ちょいちょい変なものや人を目にすることがある。ブツブツ独り言をいいながら電車に乗っている小汚いおじさん。道ばたの吐瀉物。まるでおれの乗っている自転車が見えてないかのようにスッと道に飛び出してくる老婆。繁華街の路上にぶちまけられた生ゴミに群れるカラス。ボロいアパートに雑にガムテープで貼り付けられた意味不明な張り紙。人相の悪いネットカフェ難民。もちろんこんなものは東京じゃなくても目にするんだろうけど、頻度で言ったらやっぱり都会は人が多いぶんだけ圧倒的だ。

 『コワすぎ!』シリーズの製作者である白石監督は、こういう、我々が「触れたくないな、見なきゃよかったな」と思うものをフックアップして一気に怪異へと昇華させ、建物の外壁に貼られた不気味な張り紙一発でざらりとした気持ちの悪い手触りを見ている側になすりつける。おれたちが暮らしている現実と地続きにある異物を手持ちカメラで見せることで、日常のすぐ裏側にあるゾワゾワするような異界のレイヤーを浮き彫りにする。

 

 だが、『コワすぎ!』はそれで終わるようなタマではない。タイトルの通り、単に怖いのではなく、怖"すぎる"のである。過剰なのだ。なにが過剰なのか? 工藤がである。とにかくオーバーキルな主人公、工藤の存在によって『コワすぎ!』は日常の延長から一足飛びに因果地平の彼方までぶっ飛んでいく。

 

  工藤は映像製作を生業にするディレクターだ。『コワすぎ!』は彼の元に怪奇現象を撮影した素人からの投稿映像が届き、その謎を工藤とADの市川、撮影担当の田代という3人の取材班が解明しようとする、という流れで話が進むので、ディレクターが取材すること自体はなんの不思議もない。

 が、このディレクター工藤が異常である。第一話の冒頭、投稿者から送られてきた口裂け女と思われる女を捕らえた映像を見て、いきなり「この口裂け女を捕獲します」と言い切る。なんで!? 捕獲してどうするのあんた!? という視聴者の疑問はそっちのけで、手がかりと見るやホームレスのおっさんに現金(1000円×3枚)を掴ませ、殴り、脅し、また殴って情報を引き出すという流れが圧倒的ハイスピードで展開する。そのくせ小心者なので本当に危険そうな場所は市川に行かせたり、病み上がりでは普通に弱かったりと隙だらけな所も見せる。絶対上司にしたくない男2015年上半期ナンバーワン。まさに三面六臂の大活躍なのだ。

 この工藤の圧倒的暴力により、日常によりそった怪異を追うホラーだったはずの『コワすぎ!』は河童との壮絶な殴り合いになり、タイムリープを繰り返す時間SFになり、壮大な「この世界線すべて」を大きく巻き込んだ怪異と工藤たちとの戦いのサーガになっていくのである。奇怪だけど日常的な風景が一気に世界線全体の趨勢を決する決戦に直結されるという点では『コワすぎ!』はセカイ系と言えなくもない(そうか?)。

 

 そしておれが最も感銘を受けたのが、「最終章」において他の白石作品の登場人物がすごくいいタイミングで出てくる点である。詳しく書いてしまうと興を削ぐのであんまり書かないけど、「最終章」を観賞する前に「オカルト」だけは見ておいたほうがいい。興奮度がまったく違う。

 このタイトルをまたいで白石作品の登場人物が現れる展開は、まさにマーベルとディズニーが展開している一連のマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)映画の手法そのものだ。アメコミは出版社ごとに巨大な世界観を共有しており、スパイダーマンキャプテンアメリカも同じ「マーベルユニバース」の住人である。だからタイトルが違えども漫画の中でいきなり競演することができるのだが、白石監督はこれと同じことをMCU映画よりもずっと安上がりにやってのけているのである。アメコミ風に言えば「アース白石」の帰趨を我々は目撃させられてしまうのである。低予算のDVDの連作、という形でなければ日本国内でこれだけ壮大な仕組みを実現するのは難しかったのではないだろうか。その点だけでも猛烈によく練られた作品だ(余談だが劇場版で明かされる工藤のオリジンを見ておれはバットマンを思い出した。金属バット的な意味では工藤だって充分バットマンである)。

 

 いいホラー作品からは製作者の笑い声が聞こえてくる、というようなことを中島らもが書いていたが、『コワすぎ!』シリーズからは確実に白石監督を初めとしたスタッフや出演者たちの爆笑が聞こえてくる。シリーズはまだまだ『超コワすぎ!』として続いているので、彼らの笑い声はやみそうにない。「超」って、この上さらに過剰になるのかよと戦々恐々としているが、とりあえずおれも目が離せそうにないのでコックリさんと蛇女の回はタイムシフト予約した(これ書いてる現在、ニコ生で連続放送されているんですね)。人に勧められて見たおれが今更勧めるのもおこがましいが、見てない人はとにかく必見である。見ろ。

2.5次元映画の誕生 『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』

アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(以下AOU)を見たので感想を書く。といっても、おれはMCUマーベル・シネマティック・ユニバースの略ですね)の今後を占ったりAOUに隠された寓意を探ったりPC的にあのブラックウィドウはどうなんだということにはあまり興味がない(ないわけではないんだけど……)ので、現時点で俺が思った「アメコミ映画ってすごいなあというポイント」の話を書いておきたい。例によってちょいちょいネタバレしているので注意してほしい。

 

 

 

 おれは長らく2.5次元のコンテンツというものの良さがよくわからなかった。『テニスの王子様』のミュージカルに代表されるような女子向け漫画/アニメの舞台化や、一部のアイドルユニット、場合によっては宝塚とかも含むかもしれないんだけど、とにかくこういうものにけっこうな金額を突っ込む人の心理というのがよくわからなかったのである。「漫画/アニメの状態のコンテンツが好きだったんじゃないの? 舞台ではド派手な必殺技とか出ないでしょ??」と思っていたのだ。しかし、AOUを見て考えを改めた。2.5次元コンテンツ、超楽しい。以下はなんでそう思ったかという話である。

 

 映画の序盤、ヒドラの壊滅を祝ってアベンジャーズのヒーロー達が祝勝会というか、パーティーを開く展開がある。普段のコスチューム姿ではなくフォーマルな服装に着替え、手にグラスを持って酒を飲みつつ楽しげに歓談するヒーローたち。それぞれ自分の彼女の自慢をしたり、男女のヒーロー同士でなんだかいい雰囲気になったりと、戦闘中とはまったく異なるリラックスした表情を見せる。そのうちヒーロー達がソー以外は持ち上げることのできないムジョルニアを代わる代わる持ち上げてみたり(キャップがちょっと持ち上げたときのソーの表情!!)と、和気藹々とキャッキャしている様を存分に見せてくれる一幕である。下に貼ったトレイラーの最初の方がそのシーンにあたる。

 


Marvel's Avengers: Age of Ultron extended teaser ...

 

 これを見た時不覚にもおれは激萌えしてしまった。なんてチャーミングなんだ……ほぼ全員ムキムキのあんちゃんとかなのに……と頭の片隅で思わなくもなかったが、ムキムキのあんちゃんやらヒゲのおっさんやらがフォーマルな服装でキャイキャイとじゃれ合う様子に「これは本来ならオタクが二次創作でやるべきネタなのに……ディズニー大丈夫かよ……」といらぬ心配までしてしまった。脳裏で「これに似た映像をどっかで見たな……」と思ったけど思い出せなくて、家に帰ってから「あ、血界戦線のエンディングっぽかったんだ」というのを無事に思い出したりもした(似てませんか、あれ……?)が、しかし、おれはこれこそが今までMCUが積み上げてきた蓄積が物を言ったシーンだと思う。

 

 アメコミ(というと主語がでかすぎるので「マーベルの主要タイトルには」くらいのほうがいいか)は長らく特定の作者というものが存在せず、ライター、ペンシラー、インカーなど、ストーリーや脚本を考える人、絵を描く人、絵に色をつける人などが分業でひとつのタイトルに関わる形をとっており、その状態でこの80年あまり作品が積み上げられてきた。いわば公式が二次創作を延々と繰り返し続けている状態であり、それゆえに日本の漫画では考えられないようなぶっとんだクロスオーバーや楽屋オチが多数存在する。国内の感覚で言う「二次創作」に近い内容の作品を、あちらでは公式が堂々とリリースするのである。その空気感はMCUの諸作品でも顕著で、テレビに出演した映画の出演者同士が妙に仲良くしていたり、舞台挨拶などの席でもまるで友人同士のようにキャッキャしてたりする。そして、その仲むつまじい状況はインターネットを通じて国内にいても知ることができるのだ。

 

 当然ファンとしては「撮影中にこいつとこいつは妙に楽しげにイチャついてたな……」とか「あのシーンの撮影中にキャストがはしゃいでるのをツイッターで見たな……」とかが脳裏を横切りつつ、スーパーヒーローが飲み会で楽しげにしているシーンを見ることになる。この文脈の複雑さがおわかりいただけるだろうか……? MCU世界での設定(スタークは根性が悪くてアル中とか、キャップは真面目だけど朴念仁の童貞とか)と現実世界での俳優たちのキャッキャウフフとアメコミ自体が内包しているお約束と最新のCG技術が渾然一体となり、超ゴージャスな2.5次元映画が誕生したのである(ちょっと意味合いはズレるけど最後の戦闘シーンは動く絵画みたいだったし)。「MCU映画はみんなそうじゃん」と言ってしまえばまあその通りなんだけど、あのスーパーヒーロー飲み会の多幸感は今までの各タイトルの中でも群を抜いていたとおれは思う。戦闘シーンがすごい密度&スピード感&規模で展開するのは当然のこととしつつ、そういう「アメコミ映画ならではの萌え」をサラリと突っ込んでくる点にこそ、スーパーヒーロー映画ならではの凄みを感じたのである。

 

 で、最初に書いた話に戻ると、これって構造的には日本における2.5次元もののコンテンツと同じなのではないかと思ったのだ。どちらも虚構の世界と現実の俳優の肉体とがぐちゃぐちゃに入り交じり、複雑で豊穣な文脈の蓄積を築き上げている。ことここに至って、イケメンによる二次元作品のミュージカル化や『マジすか学園』に熱を上げるオタクたちの心理がなんとなくわかった、というと言い過ぎだろうか(言い過ぎでしょうね……)。でも、とにかくそういうことをおれに教えてくれた映画としてAOUには非常に感謝している。これからMCUのシリーズはかなりしんどい展開になりそうだけど、アベンジャーズのみなさんには是非これからも末永く活躍していただき、おれを萌え殺していただきたい。

怒れ!怒れ!消え行く光に! 『トゥモローランド』

 映画『トゥモローランド』を見た。ディズニーである。数年前までこんなにディズニーのお世話になるとは思っていなかった。ネタバレしてるので嫌な人はここから先を読まないでください。

 


Disney's Tomorrowland - Official Trailer 3 - YouTube

 

 この映画が始まる前、いつものディズニー映画ならシンデレラ城がでてくるはずのタイミングで出てくるのはトゥモローランドのアイコンだ。つまり「この映画におけるシンデレラ城はトゥモローランドですよ」と控えめに宣言されるところからこの映画は始まる。で、その映画本編の内容はシンデレラ城=トゥモローランドの再建の物語だ。行動力と知性を兼ね備えた天才たちが別次元に作り出した人類の英知の集約点であり巨大な未来都市であるトゥモローランドと世界全体の危機、それを救うために奮闘する少女とおっさんの物語が『トゥモローランド』の本筋である。

 

 が、ストーリーは割とどうでもいい。とにかくこの映画を作った人間は苛立ち、怒っている。何に怒っているかというとロケットを月に打ち上げたり革新的な都市計画で生活そのものを刷新したりしなくなった人類に対してだ。アイディアを出すより諦める方が楽だと気がついてしまった人々に対し「お前らそれじゃダメだろ!」と、ものすごい勢いでぶん殴る映画が『トゥモローランド』である。主人公ケイシーはケープカナベラルにあるNASAのローンチコンプレックスの解体作業を妨害していたことから、トゥモローランドの復活のための人材としてスカウトされる。カナベラルの発射台を守るために活動していた少女がトゥモローランドを守るための人材としてスカウトされるということは、つまるところこの映画を作った人たちの認識の上ではトゥモローランドNASAのローンチコンプレックスであり、そして前述の通りシンデレラ城がトゥモローランドとイコールで結ばれるとするならばシンデレラ城=ローンチコンプレックスである。人類を月に送り込んだロケットの発射台とディズニーが持てる技術の粋を尽くして作り上げた夢の国とが同じものであるとする視点がまず存在し、そしてその視点を持つ存在(『トゥモローランド』を撮った人々)は人類が月の向こうを目指さず、環境やその他の問題を解決するために劇的なイノベーションを起こしていないことに対して全く満足していない。都市に対して明確な計画を持っていたウォルト・ディズニー、そして劇中にも登場するエジソン、テスラ、エッフェル、ヴェルヌといった天才たちのように野心を持ち現状を打破するエネルギーを持たず、スノッブぶって諦めや折り合いをつけてしまったこの世界の現状に対し、ド正面から中指を突き立てる。弊害もあるし(この映画では核兵器のキノコ雲が何度も登場する)どうしようもないところもあるけど、それでも現状を打破するのは科学と人類のポジティブな力なのだという「でも、やるんだよ!」という精神で映画全体が徹頭徹尾貫かれている。ここまで輝かしい未来の力を信じている(もちろん批判も織り込み済みだろうけど)映画も昨今珍しい。

 

 思えば、昨年おれはこの愚直なまでの怒りと人類の起こすイノベーションに対する信頼を感じさせる映画を見た。『インターステラー』である。あの映画ではディラン・トマスの詩が何度も引用された。「穏やかな夜に身を任せるな 老いても怒りを燃やせ 終わりゆく日に 怒れ 怒れ 消え行く光に」というこの詩と、『トゥモローランド』の製作陣の心情はけっこう近いところにあると思う。トゥモローランドへのバッジを手に入れるのに相応しい人々はこのように現状を諦めず、穏やかな夜に身を任せなかった人々だ。そしてその象徴として登場するのがロケットの発射台というのがとにかく美しい。まっすぐに天に向かって飛んでいくロケットほど「未来」を感じさせる人工物もそうそうないだろう。

 

 もちろん、「誰がトゥモローランドに行くに相応しい人間を見極めるのか」という点で大きな疑問は残る。結局それを子供に託してしまったのはちょっと安直すぎるのではないかと思う。だけど、とにかくこの映画の「輝かしい、あるべき未来」を求めることをやめてはダメだ、それは死ぬのと同じだ、という強いメッセージの眩しさとそれを表現する事のまっすぐさには目が眩んで涙が出そうになる。その点だけでもまさに人類が月に行かなくなりずいぶん大人しくなってしまった今現在に作られ、公開されるべき映画だったと思う。

 

 ちなみに、おれがこの映画になんとなく似てるなーと思った映画に『遠い空の向こうに』という作品がある。ウェストバージニアの、ちっちゃい炭坑しかないド田舎の町で困った事にロケットに魅せられてしまった少年達が周囲の無理解(なんてったって周りはガサツな炭坑の男達しかいない)に苦しめられながらなんとかしてロケットを手作りして飛ばそうとする話だった。彼らもまたトゥモローランドに入る資格のありそうな少年達だったと思う。というかこの映画も長じてNASAの技術者になった人の実話なんだけど。まだ見てない人はこの映画も『トゥモローランド』と合わせてどうぞ。

車が吹っ飛び、モラトリアムは終わる。 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見た。

 ネタバレを気にするような映画ではないと思うけど、気になる人はここから先は読まないでください。

 


映画『ベルフラワー』予告編 - YouTube

 ちょっと前に公開された映画で『ベルフラワー』という作品があった。

 もはや神格化すらされている映画『マッドマックス2』の悪役であるヒューマンガス様に心酔し、まだ見ぬ"世界の終わり"に備えて火炎放射器付きの改造車「メデューサ号」を作ったり、自作した手持ちの火炎放射器火炎放射器ばっかりである)を試射したりで時間を潰しているウッドローとエイデンの無職ボンクラ2人組。しかしある日立ち寄ったダイナーで行なわれたコオロギ早食い選手権に出場したウッドローは同じく出場者だった女、ミリーといい感じになり付き合うように。舞い上がるウッドロー。しかし元々ミリーとデキていた間男のマイクとミリーのセックスの現場をウッドローは目撃してしまい、ショックで家を飛び出したら車に撥ねられて大怪我。退院して腹いせにミリーの友人と関係を持つも気分は晴れず、そこにマイクが「ミリーの荷物返せよ」と言ってきたからさあ大変、ミリーの荷物を彼女の自宅の前で焼き払ったりその復讐としてミリーがウッドローの顔にヒゲの入れ墨を入れたりと、どこから現実でどこから非現実なのか判然としない、夢と現を行ったり来たりしながらの報復合戦の果てにウッドローはどこにたどり着くのか……、という話である。

 この『ベルフラワー』、恋愛を扱った映画ではあるんだけど、おれは核戦争によって滅んだ世界という”ここではないどこか”を夢見ながら日がな一日火炎放射器を振り回して遊んでいる主人公ウッドローとエイデンの無職(無職っぽく見えたけど違ったかもしれない)コンビのほうが気になっていた。「このクソみたいな世界が核で燃え尽きちまえば、火炎放射器付きの車を作って準備しているオレたちの方が強者になれるのに!」とくすぶりながら日の高いうちからビールを啜る彼らの生活は本当に自堕落で、いい歳のおっさん2人が無理矢理モラトリアムを引き延ばしているようにしか見えなかった。気持ちはわかるけども。

 

 


Mad Max: Fury Road - Official Main Trailer [HD ...

 で、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。『マッドマックス』シリーズの第四弾にして最新作であるこの映画だけど、もうほんとこれが超ド級の大傑作だ。ストーリーは至って簡単。水と燃料と食糧が超貴重品になっている荒れ果てた世界で、流れ者のマックスが悪役イモータン・ジョーの軍勢にとっつかまる。が、ひょんな事からジョー配下の女戦士フュリオサとジョーの元で子どもを産むためだけに飼われていた女たちの反乱に同行することになり、最凶改造車軍団との決死の戦いに挑むというものだ。脳味噌がミジンコ程度しかない連中が考えたようなトゲトゲの改造車が派手に吹っ飛び、人がゴミのようにポンポン死ぬという地獄のだんじり祭りのようなゴキゲンな快作である。

 

 ストーリーの核となるフュリオサは実は元々ジョーの配下だったわけではなく、子どもの頃に誘拐され戦士として育てられた女であり、その子ども時代の記憶を元に、荒れ果てた世界の中で草木が生い茂る緑の地(彼女の生まれた土地でもある)を目指して、ジョーの飼っていた女たちと共に命をかけた大脱出を図る。しかし、たどり着いたその地はすでに土地の汚染によって枯れ果てていた。そこでフュリオサはさらに遠くを目指し、本当に草木を生やすことができる土地があるかどうかわからないにも関わらず、枯れ果てた広大な砂漠を踏破しようとする。

 その決断に待ったをかけるのがマックスだ。彼はそんな勝率の低い博打ではなく、水が潤沢にあり畑にすることができる土地もあるイモータン・ジョーの根拠地を奪い取ることをフュリオサに提案する。"ここではないどこか"にある理想郷を目指してエクソダスするのではなく、"今、ここ"で戦い、自らの生存を勝ち取ることを説くのだ。そしてマックスとフュリオサ、それに女たちは今まで乗っていた巨大なトレーラーを活かした最後の戦いに打って出る。"ここではないどこか"を夢見て行動することをやめ、"今、ここ"でジョーの軍勢と死闘を繰り広げた彼女達は、少なくない犠牲を払いながらもついに勝利し、彼女らの支配者の土地を自らのものにする。

 

 こうして見ると、つまるところ、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は"ここではないどこか"を探してウロウロするようなモラトリアムの終わりとその向こう側を描いた作品だ。虐げられ逃げ続けたフュリオサらが自分たちを蔑ろにしてきた支配階級に真っ向から勝負を挑み、それに勝つまでの死闘をハイカロリーな語り口で描いたのがこの映画である。だからこそ見終わった時になんだかよくわからない爽快感があり、有り体に言うとおれはけっこう感動してしまったのだ。

 

 『ベルフラワー』のウッドローは核戦争後の地球という"ここではないどこか"を夢見ながらダラけたモラトリアムの中でグズグズし、そしてこっぴどい失恋の果てに地獄のような、悪夢のような世界を見た。しかしウッドローの愛したマッドマックスの最新作では、坊主頭のシャーリーズ・セロントム・ハーディのマックスが雄々しく"今、ここ"でバカみたいな改造車をドンドコ吹き飛ばしながら戦い、そして勝利したのである。『怒りのデス・ロード』は、見ようによってはこれ以上ないくらい優しく(なんせファンが『マッドマックス』というタイトルに求めるものは2000%詰め込まれているのだ)「世界の終わりはまだしばらく来そうにないし、お前らもそこでもうちょっと頑張れよ……」と諭しているような作品だ、というのはちょっと穿ち過ぎだろうか。でも、終わってしまった世界の中でマックスとフュリオサは自らの場所を確保するべく戦った。それはやっぱり、おれには"ここではないどこか"を無責任に求めるのではなくて、お前が今いるその場所で戦え、という話に見える。

 

 聞けば『ベルフラワー』のストーリーは監督と主演を務めたエヴァン・クローデルの実体験に基づくものだという(その時の失恋の相手がミリーを演じたジェシー・ワイズマンだとか)。"ここではないどこか"を求めた自らが精神的に破滅する話を映画にしたこの人が、"ここではないどこか"を求める願望が爆発と轟音の中で終わり、"今、ここ"での死闘へと切り替わる『怒りのデス・ロード』を見てどう思ったのか、おれは今非常に気になっている。だれか聞いてきてくれませんかね。いや、ほんとに。