でもいいの?ホントにそれで。『ヤクザと憲法』
ヤクザは社会のダニであり、反社会的集団であり、望んで犯罪者になった連中の集団なので容赦はいらない。奴らに人権なんかない。ヤクザにならない自由だってあるのに、すすんでヤクザになった人間なのだから、全てのリスクは本人が負うべきだ。
もっともだ、と思う。しかし、その一見もっともな意見に対し「ホントに?」と切り込んでいくドキュメンタリー映画が『ヤクザと憲法』である。なぜ憲法か、と言えば、はっきり言って現在のヤクザは憲法14条に規定された法の下の平等の埒外に置かれているからだ。
本物のヤクザである大阪の指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」の事務所に東海テレビのスタッフが入り込み、長期間の取材を経て完成したこの映画には、現在のヤクザの生々しい生活がそのまま映っている。夏場には事務所のテレビで高校野球を観戦し、「ヤクザも高校野球見るんだ……」と思った次の場面では試合を見ながらなにやら札束を封筒に小分けにしているヤクザのおっさんが映る。彼は「何をしているんですか?」というスタッフの質問に対し「野球や。高校野球」と短く答える。高校野球に関する小分けにされた札束……。意味深すぎる。
また、飯を食っているヤクザの携帯が突然鳴り出し、短い会話の後にどこかの住宅地へ車で入っていくシーンもどぎつい。住宅の入り口で「なにか」を手渡し、「なにか」を受け取って車へ戻ってくるヤクザに対し、取材陣は「覚醒剤ですか?」とノーガードの質問をぶち込む。「まあそう思うんならそうなんじゃないですか……」という感じで言葉を濁しつつ車を運転するヤクザ。我々が想像する「ヤクザのシノギ」にかなり近いシーン。このあたりは「ヤクザの実態を追ったドキュメンタリー」に期待されるような見世物小屋的な要素を満たしていると思う。
しかし、事務所で部屋住みの若い衆が寝泊まりしている部屋に置かれているのはなにやらかわいらしい動物(犬とかネコとかだ)の写真集。一見ヤクザの事務所には似つかわしくない本だが、聞けば服役中は大変つらいのでこういったかわいい動物の写真を見て癒やされるのだという。また、前述の「高校野球に関する現金が入った封筒」を放り込んでおく袋はサーティーワンのビニール袋だ。ヤクザだってつらいときは動物の写真集に癒やされるし、サーティーワンでアイスを買って食ったりするのである。
このように取材陣はヤクザの事務所でカメラを回し続け、ヤクザたちの妙に人間的な瞬間を捉える。ヤクザと言っても大半は40〜60代のおっさんばかりであり、ヒマそうに事務所でお茶を飲みながら世間話をする姿は近所の気の良いおっさんといった感じである(小指がなかったりするが)。年の瀬には紅白歌合戦を見るし、普通の人間に混じって外で飯を食ったりするのである。しかし、時には下手を打った若い衆をシバき倒し(余談だがこのシーンでは部屋の中にカメラは入れてもらえない。声だけでも充分怖かった)、ヤクザには欠かせない義理ごとに赴くときはビシッとしたスーツに着替えたりする。
現在の彼らは暴対法によって非常に理不尽な目にもあう。保険に入れず銀行口座も作れず、口座から引き落とせない給食費を現金で学校に持っていくから子供の親がヤクザというのが一発でバレる。とにかくやることなすこと全て制限されており、画面からもヤクザらしい羽振りの良さはまったく見られない。交通事故のために保険を適用しようとしたヤクザが逮捕され、大阪府警のマル暴が事務所に乗り込んでくるシーンは本作の白眉だ。どちらがヤクザだかわからないくらいの恫喝が取材陣にも及び、思わず見ていて首をすくめるほどのスリルである。ことほどかように、ヤクザは今弱っているのだ。
ヤクザを弁護する弁護士だって無関係ではいられない。山口組の顧問弁護士は山口組の顧問弁護士であるというだけで弁護士資格を剥奪され、廃業に追い込まれる。『ヤクザと憲法』の後に公開された『ブリッジ・オブ・スパイ』では冷戦期のアメリカでソ連のスパイ(ヤクザどころではない激ヤバ弁護対称である)を弁護することになってしまったトム・ハンクスが主役だったが、あの映画ではアメリカ国民にとって唯一にして最大の規範である合衆国憲法に基づき、あくまで人間としてソ連のスパイを弁護する弁護士がヒーローとして描かれた。現在の日本で起きているのは1960年代のアメリカよりも後退した事態ではなかろうか。
この映画で強烈だったのは「ヤクザも人間」という、当たり前の事実だった。おれは大学の時に『仁義なき戦い』を見てからヤクザ映画の面白さにシビれ、ヤクザ史を読みあさるうちに(面白いんですよこれがまた……)彼らをフィクションとして消費することに慣れきっていた。思えばヤクザはニンジャもサムライもいない現代の日本に残された、最後のファンタジーのひとつである。それが証拠にハリウッド映画でウルヴァリンやプレデターと渡り合う日本人は皆ヤクザだ。それらを面白がっているうちに、彼らはスパイダーマンやエイリアンと同じ枠に収まってしまっていた。それは「自分とは次元の違う存在」という枠に押し込めることで無関係の存在と見なす、一種の思考停止だったのではないか。
しかし、当然ながら彼らは人間である。ネコの写真集も見るしサーティーワンにも行くのだ。そして現在の法体系の下では彼らが満足に人間らしい生活ができるかと言えばそうではない。
この映画に登場する若い部屋住みのヤクザは、元は引きこもりだったのがドロップアウトしてヤクザになったのだという。大晦日に事務所で紅白歌合戦を見ながら老ヤクザに諭されていた彼は結局ヤクザを辞め、食うに困ってコンビニ強盗をやって捕まっていたそうだ。
昨日"ヤクザと憲法"というドキュメンタリー映画を観た。引きこもりで拾ってくれるところがヤクザしかいなくてヤクザになった21歳が登場してた。 彼を調べたら、去年6月に組を辞めて生活出来なくなりコンビニ強盗して懲役7年になってた。ヤクザはある意味セーフティーネットなんだなと思った。
— Keiji Isogimi(五十君圭治) (@kaerudisny) January 17, 2016
あの部屋住み君、不器用そうだったもんな……。と思う反面「ヤクザがセーフティーネットになってる社会ってどうなんすかね」とも思う。この「どうなんすかね」という感じは取材陣による「ヤクザを辞めたらいいのでは」という質問に対する清勇会の川口会長による「どこで受け入れてくれる?」というヘビーすぎる逆質問へと行き着く。おれにはこの質問に対する回答は用意できない。
ヤクザは社会悪であり屑である、と断罪するのは簡単だし単純だ。そしてこの映画はその単純さに対し「でもいいの?ホントにそれで」と鋭すぎる問いを突きつける、極めてシャープな作品だった。
そしてストーリーは続く 『ストレイト・アウタ・コンプトン』
ちょっと遅くなったが映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』の感想である。
本作はヒップホップの歴史にその名を残すギャングスタラップのオリジネイター、N.W.Aの伝記映画である。時は1986年、全米への麻薬流入が大問題になっていた時期で、その流通ルートの末端に位置するゲットー住まいの貧乏黒人たちは度重なる警官からの暴行に晒され、道に突っ立ってるだけでボコボコにされることもしばしば。そんな中、全米最悪の治安を誇るロサンゼルス近郊のコンプトンでくすぶる若者たちがいた。
ドラッグのディーラーとして金を稼ぎながらその商売が長続きしないことを悟り現状をなんとかしたいと考えるイージーE、レコードおたくでクラブでDJをやってる時以外は無職(妻子あり)のDr.ドレー、真面目な学生ながら暴力に満ちたゲットーの日常を記しつつたまに警官にボコられたりするアイス・キューブ。彼らを中心に結成されたグループ「N.W.A(Niggaz Wit Attitude、主張する不良黒人みたいな意味)」はこれまでにないド直球のバイオレンスやゲットーの日常が綴られたリリックと、攻撃的でありつつどこかけだるさも感じさせるトラック、本物のギャングにしか見えない(ドラッグの売人がメンバーなんだから当たり前だ)見た目も相まって一気にのし上がる。
が、ギャラの分配の契約を巡ってグループは破綻。泥沼のディスり合いを経てなんとか再結成の兆しを見せるが、フロントマンのイージーに病魔が迫りつつあった……というようなお話。
ヒップホップというのは音楽のジャンルだと思われているが、実のところ音楽だけを聞いていてもそこまで面白いものではない。リスナーは「○○と××がめっちゃケンカしてる!」とか「△△が□□のレーベルに入った!」とか、そういう周辺の人間関係やストーリーをトータルで消費してシーンの状況を把握し、その中で生まれる音楽がパッケージして売られている、というのが実のところだ。そういった周辺事情が巨大なストーリーを組み立て、いつしかヒップホップには40年ほどにわたる長大な歴史が編み上げられていった。様々なプレイヤーが入れ替わり立ち替わり登場しては新しいテクニックを生み出し、チームを組み、仲違いし、バトルを繰り返す様はどちらかというと音楽というよりアメコミやプロレスやガンダムや三国志に近い楽しさがある。ルックがマッチョなのでわかりにくいが、ヒップホップは実は結構オタク向けのジャンルなのだ。
そういうジャンルの中で、N.W.Aはひとつの特異点と言えるグループだ。なんせ西海岸のヒップホップが隆盛するきっかけをもたらした上、メンバー同士の過激な内戦や、ド底辺から成り上がったイージーEの悲劇的な死に様、キャラが立ったメンバーそれぞれのカリスマ性などは現在の眼で見ても充分魅力的。この映画ではそのあたりの面白さを存分に描いており、ストーリー自体は成り上がったミュージシャンにありがちな話ながら、『Fuck the Police』を巡る警官とのバトルやビッグになった後のまさしく酒池肉林の狂騒、メンバーそれぞれの挫折や葛藤などを猛烈に魅力的に見せてくれる。
そしてメタ的に見れば、大変興味深いのがこの映画はN.W.Aの元メンバーが協力/主導して製作された点だ。製作に名を連ねるのはDr.ドレー、アイス・キューブというN.W.A元メンバーの筆頭2人。さらに劇中随一の悪役として映画に登場するデス・ロウ・レコードのシュグ・ナイト本人が撮影現場に乱入、車で俳優を轢き殺して服役するという、映画本編並みにインパクトのある事件も起こしている。
HIPHOP界の帝王シュグ・ナイトが轢き逃げ後に殺人容疑で逮捕
かつての自分たちの栄光と挫折の日々を元メンバー本人たちが製作した映画で物語るという自己言及的な構造は非常にヒップホップ的であり(とにかくヒップホップの人達は自分たちのことをラップするのが好きだ)、さらにその映画で悪役にされた人間が撮影現場で殺人事件まで起こすのに至ってはさながらギャングの抗争だ。この『ストレイト・アウタ・コンプトン』がN.W.Aの元メンバーたちによって製作され、途中でシュグ・ナイトが大暴れし、さらに映画が大ヒットしたこと自体がヒップホップ史、そしてN.W.Aのヒストリーの一部になるという構造を備えているのだ。『ストレイト・アウタ・コンプトン』はN.W.Aの伝記映画であると同時に元N.W.Aメンバーが直接作った映像作品でもある。
その意味において、この映画の存在自体がN.W.Aとそのメンバーたちの歴史がまだ終わっていないことの動かぬ証拠となり、映画本編を見た今となってはまさしく「歴史を目撃した」という感慨がある。映画は終わっても彼らのストーリーはいまだに続いており、それは現在まで地続きなのである。『ストレイト・アウタ・コンプトン』を見た我々も、N.W.Aのヒストリーの肥やし程度にはなったのかもしれないと思うと、なんだかちょっと嬉しくなるのだ。
さようなら、スターウォーズ。初めまして、スターウォーズ。
想像してほしい。
感動をありがとう 『グリーン・インフェルノ』
「日本を元気にしたい」と言いつつ「ぃぃいらっっしゃっせーーーーーーぃ!!」と客に向かって怒鳴るような接客をする居酒屋。「感動を届けたい」といいながら競技に臨むアスリート。「勇気をもらいました」という映画の感想。おれはこういったものを見るだけで毎回律儀にウンザリしている。居酒屋の店員の声は大きすぎるとこちらの会話がしにくくなるし、感動はこっちで勝手にやるから運動の選手は競技に集中してくださいよと思う。
そんなおれだが、今日はイーライ・ロスから本当に感動をもらってしまった。最新型食人族ムービー『グリーン・インフェルノ』を見たのである。
「アマゾンの少数民族が開発によって住処を奪われ、虐殺されている!」と義憤に燃える学生団体が開発のひどさをスマホで撮影、SNSで動画を拡散しようと現地に飛ぶも、復路で飛行機がジャングルに墜落。落ちた飛行機の周りを学生たちがうろうろしてたらどこからともなく毒矢が飛んできて、気がついたら人食い土人の集落の中。かくして意識の高い学生たちが一人また一人とアマゾンの未開の部族で丸焼きにされたり刺身にされたりしてバクバク食べられてしまうのだが——というお話。
なんといっても近頃話題の人食い族映画である。かつては「人食い族」といえば「恋愛」「アクション」「SF」に並ぶれっきとした映画の1ジャンルだったけど、最近では『食人族』のブルーレイの発売がずれ込んだりガルパンの予告で揉めたりとトラブルに事欠かない。という状況下でありながらフタを開けてみればこの『グリーン・インフェルノ』は超剛速球のカニバリズム映画で、この開き直りっぷりにはもうゲラゲラ笑うしかない。なんつっても主人公の学生たちをバリバリ食べちゃう人食い族の造形が見事で、めちゃくちゃにガチ度が高い。聞けば本物の現地少数民族の人たちなんだそうで、みんなものすごくイイ顔をしており、またこれが美味そうに肉を食べるんである。人肉だけど。
意識高い学生サイドの描き方もすばらしい。団体のリーダーはSNSとiPhoneを使いこなすヒップスター的な奴で、同じ団体のなかに彼女もいるような、一種のカリスマ。だけど映画が進むにつれてこいつがほんとにとんでもない奴だということが判明していくのは、人肉食シーンとならぶこの映画の大きな見所のひとつだ。そんでもって携帯とインターネットとバッテリーを奪われて未開の地に放り出された意識だけ高い学生たちの弱いこと弱いこと。おれだってアマゾンのジャングルで人食い族の前に放り出されたら似たようなもんだと思うが、とにかく高い意識の裏側に独善と傲慢を隠し持った現代的な若者たちがバンバン景気よく死んで食われるので大変溜飲が下がる!もっと殺れ!キルエムオール!!
というわけで本作においてイーライ・ロスは触るものみな傷つける巨大電気ノコギリのような偉業をなしとげている。主人公ら学生たちもいけすかないクソ野郎だし人食い土人は元々意思の疎通がほぼ不可能。返す刀で観客にも「お前らだってこの学生どもとそう変わんねえんだよ」と切りつける。『グリーン・インフェルノ』は娯楽性の高いカニバル映画であると同時に優れた現代社会への批評でもあるのだ。ジャングルの緑はどこまでも美しく撮影されており、そこを開発する重機や警備のPMCたちはひどく禍々しい。それを自らの自意識を満たすためだけに「告発」しようとする軽薄な学生グループ。そしてそこに人食い土人とフルスロットルの人体損壊。『グリーン・インフェルノ』に詰め込まれているのは現代社会を構成する要素そのものだ。人食い族映画でこれをやるのは恐ろしいバランス感覚だし、やっぱりイーライ・ロスは心底真面目な人なんだろうと思う(余談だけどこの内容の映画のエンドクレジットで出演俳優のツイッターのアカウント名を入れるのとか批評性超高いと思う)。
しかもこの映画、部分的にはコメディなのである。人類史上最もオナニーが困難な状況でのオナニーのシーンでは客はゲラゲラ笑ってたし、画面には常にギリギリすぎるユーモアの気配が漂っている。頭から人間が食われているのに。この不思議な空気感は是非とも映画を見て確かめていただきたい。
やれポリティカル・コレクトネスだ人道的配慮だと喧しい昨今に、これだけ直球の人食い族映画を制作したイーライ・ロスは敬意に値する。この映画からは「客を本気でビビらせたりドン引きさせたりするにはこれくらいやんねえとダメなんだよ!!」というスタッフの気合が充満しているのだ。間違いのないプロの仕事であり、そしておれは前述のような構造を組み込みつつも優れたエンターテイメントとしてこの映画を完成させた彼らの仕事ぶりに感動をもらったのである。偉いよあんた達!
とはいえ、ハチャメチャな人体損壊シーンてんこ盛りなんで人によっては全くダメな映画だと思う。無理は禁物だが、それでも見られるならなんとかして見たほうがいい。見世物小屋的な興奮と優れた社会批評のハイブリッドなんてなかなか見られるものでもないし。もしちゃんと見れば「ワシは『グリーン・インフェルノ』を劇場で見たんじゃよ……」と孫の代まで自慢できる、そんな気分になる1本なのだ。
おれもお前もブロンソン
スターウォーズが怖い
スターウォーズの新作が怖い。かつてない恐怖を感じている。たかが映画をなんでこんなに怖がらなくてはならないのかよくわからないけど、それはおれの中でスターウォーズは「たかが映画」ではないからなんだろう。EP7の公開まであと2ヶ月あまりとなったところで、現在の心境を記しておきたい。
そもそも幼稚園の頃に見たEP4は生まれて初めて見た実写映画で、銃で撃たれて人が死ぬ映像を見たのも、戦闘機と一緒に吹き飛ぶパイロット(特にジェック・ポーキンス)の映像を見たのも、なにもかもをEP4で初体験した。家にあったブロック(我が家はダイヤブロック派だったし当時はスターウォーズのレゴなんてなかった)で幼稚園児だったおれはXウイングを作りまくり、ダース・ヴェイダーに心底恐怖した。
そんなおれは現在28歳。世代的には特別篇〜プリクエル世代のど真ん中で、特別篇は小学5年生の時、EP1公開が中学校の1年生の時で、EP3を大学の1年生の時に見ている。EP2だけはいまだにいただけないが、EP1はそこまで嫌いじゃないし、EP3は大好きだと胸を張って言える。EP1だってジャージャーがアレなのはまあそうなんだけど、でもおれにアメトイを買いあさり横や斜め後ろから映画を見ることを教え、海外のSFファンダムの層の分厚さを叩き込んでくれたのはEP1だった。大体「ジャージャーがうぜえ」ってネタだって、そう言っとけばファンの間の定番ネタに乗っかってる感じが出るからそう言ってるんだろ?って奴ばかりだ。そこまで大騒ぎするほどウザいわけでもないと思うし(ウザくないわけじゃないけど)、アーメド・ベストがイベントに呼んでもらえないのはかわいそうすぎると思う。
ざっくりとおれのスターウォーズ遍歴をまとめてみた。本当にざっくりだけど、まあおれが大層心の広いファンであることは分かってもらえたかと思う。しかし繰り返すがそのおれがEP7に対しては非常に恐怖し、かつ現状に憤っているのだ。
こないだEP1公開直前に出版された『スターウォーズ完全基礎講座』という名著を呼んでいた。R2の発する電子音を解析して何を言っているかを考察するコラムとかが掲載されているキチガイじみた本なんだけど、そこで書き手が「今年で31歳になるスターウォーズ直撃世代だ」というような自己紹介をしている文章を読んでハタと考え込んでしまった。
31歳。今おれは28歳。そしてこの本は1999年のEP1公開直前に出版されたものだ。
つまるところ、1999年はスターウォーズが1977年(日本だと1978年か)に直撃した時に少年だった人々が、今のおれくらいの、アラサー的な年齢だった年なのだ。1999年には中学生だったおれには「ダース・モールかっこいいよなー!」で通過できたEP1も、彼らからすると悲惨な思い出だったのかもしれない。ジャージャーが嫌いで嫌いで仕方ない人も、いても仕方ないのかもしれない。
1999年にアラサーだった人たちはアラフォーになり、1999年に中学一年生だったおれは28歳になってしまった。そして今まさに1999年にアラサーだったオタクたちが感じていたものと同質であろう期待、そして圧倒的な恐怖を感じている。生まれて初めて味わう恐怖だ。先達としての意見を伺おうとしても、すれっからしのアラフォーのスターウォーズプロップおじさんたちは「EP7? つまんねえに決まってんだろ! ガキはおうちに帰ってママとクッキーでも焼いてな!! おれはバンダイのキット組むからよ!」と取りつく島がない。まわりの同世代のオタクたちもスターウォーズなんかロクに見ていないし、スノッブでオシャレで海外のオタクみたいなノリが売りの"映画クラスタ"の皆さんは、やれ吹き替えが芸能人だ字幕が戸田奈津子だ公開スケジュールがウンコだ宣伝がクソだディズニー死ねと周辺事情をツイッターで叩いてまわるのに忙しいのでおれみたいなオタクと話をする余裕はなさそうである。なんだか一番割りを食っている気がしてくる。孤独だ。
以下はアラフォーの公開当時組でもなければ、溢れる知識とセンスを武器にインターネットで暴れ回る"映画クラスタ"にもなれない、どっちつかずのおれが思うEP7の恐怖についての文章である。
今回のEP7、今までに公開されているデザインや予告を見る限りでは製作チームが相当ハイレベルなデザインワークをこなしているのは確かだ。ラルフ・マクウォーリーとジョー・ジョンストンという偉大すぎる2人のアーティストが'70年代の後半に残した仕事を徹底して解析しトレスして、現在の目で見ても通用し、しかもEP4〜6のその先にありそうなデザインを実現しているように見える。ファーストオーダーストームトルーパーのデザインのハイコンテクストぶりはすさまじいし、カイロ・レンのルックスからは「部品点数を極限まで減らして純度を高めたシスの暗黒卿」というコンセプトがビンビンに伝わってくる。例え映画が「JJエイブラムスのスターウォーズ撮影ごっこ」だったとしても、彼らは非常にいい仕事をしているのだと思う。
でも国内ではスターウォーズはもう2線級のコンテンツに成り下がってしまった。EP7のプロモーションの現場には恐らく1977年の公開当時を知っている人間はほとんどおらず、後からとってつけたようなクソみたいな上滑りしたプロモーションと空虚なコスプレでのお祭り感だけがコンテンツとしてのスターウォーズの死臭をまき散らしている。リンクを貼るのも忌まわしいので各自でググって辿り着いてほしいが、BRUTUSのスターウォーズ特設サイトはそれらすべての極北、グラウンドゼロ、視界いっぱいに広がるこの世の地獄である。「みんな、スターウォーズが好きで好きでたまらない」じゃねえんだよ! お前はここで死ぬんだよ!!
ハズブロを中心としたマーチャンダイズのダメっぷりもキツい。ここ数年ハズブロは明らかにパワーダウンした熱量の低いフィギュアしかリリースできなくなっており、雑な関節構造、減り続ける付属品、残念な塗装と三拍子揃ったトイばかり連発していたが、スターウォーズのようなフラッグシップタイトルでもその調子なのかとクラクラした。何がフォースフライデーだ。売らないほうがマシみたいなクソみたいなオモチャをドヤ顔でバラまきやがって……。
国内国外含めてどいつもこいつも悲惨な駄玩具ばかり売るなかで、かつてのガルーブ復活の狼煙となるのか、「マイクロマシーン」のブランド名、そしてキャラの頭がガバリと開いてジオラマになるタイプのクレイジーなシリーズが復活したのだけがめでたい。まあオモチャでネタバレ喰らうのイヤだからまだ買ってないんだけどさ……。
これで、これで映画本編がひとつの文句もないくらいめちゃくちゃ面白かったらなんの問題もない。でもそれはまさしくデススターの排気口にプロトン魚雷が滑り込むような確立の低さだろう。もうおれはEP1の時のような純朴な岐阜県の中学生ではないし、スターウォーズをきっかけにして色々と映画に文句をつける見方を覚えてしまった。多分、どこかしら「え〜〜〜っ!?」という箇所を見つけてしまうだろう。そしてスターウォーズは死んでしまったとリアルでもインターネットでも騒ぐことだろう。
そういうキツい通過儀礼を経て人は段々、スレたアラフォーの特撮プロップおじさんへと変化していくのだ。悲しいがそれが人生なのだろう。我々は(というかおれは)まさに今スターウォーズに人生を教わっているところなのかもしれない。ありがとうスターウォーズ。
ディテールの地獄 『野火』
ちょっと前になるけど塚本晋也版の『野火』を見た。以下は感想。
映画『野火』 Fires on the Plain 予告編 - YouTube
太平洋戦争末期、レイテ島で1人の兵隊が体験した戦場の様相と、「めちゃくちゃな極限状態に置かれた時に人間を食えるか」というものすごい問いをぶつけてくる大岡昇平の同名小説の映画化。
なんだけど、この映画では徹底して大局が描かれない。そもそもレイテでの日本軍の話だというストーリーの前提が説明されない。熱帯のジャングルっぽいところのど真ん中で、見るからに弱そうな日本兵のおっさん(塚本監督本人)が結核になった、というところからいきなり話が始まる。
「ロクに働けねえ奴を部隊に置いとけねえよ、病院行けよ」という上官の言うことを聞いてなけなしのイモを持って病院に行ったら「これっぽっちでここには置いとけねえよ。出てけよ」と言われ、たらい回しにされたあげく日本兵のおっさんは部隊から放り出されてしまう。
そこから先、彼はフィリピンのジャングルを頼りなげにうろつき、現地のゲリラや米軍機の機銃掃射に追い回され、ついには現地人まで殺してしまうのだが、そこでも徹底してカメラがフォーカスするのはディテールだ。死体にたかるウジのツヤや掘り出して食う芋の不味そうさ加減やまとわりつくハエの羽音といった強烈なディテールの連打は、映画を見ている者に奇妙な没入感を与える。
濃密なディテールの描写は中盤の米軍陣地からの機銃掃射シーンでひとつのピークとなる。機関銃の当たった兵隊の腕はちぎれ、顔面は吹き飛ぶ。ここまで「不意に機関銃の掃射を受けた歩兵部隊はどうなってしまうか」が生々しく、歩兵自らの視点で描かれた映像は『プライベート・ライアン』以来だと思う。視点はとにかく低く、映画を見ている者をかすめるように弾丸が飛ぶ。鑑賞者は兵士と共に血まみれの泥まみれになることで傍観者のポジションから引きずり下ろされ、気がついたら「ああ、ここはこういうところだからこうなっても仕方ないなあ。食い物もないしなあ」という感覚を知らず知らずの内に受け入れてしまう。
詰まるところ、『野火』は極めてテーマパーク的な作りの映画だ。状況の説明はなく、ひたすらディテールが連打されることによって観客を観客の立場でいられなくし、容赦なくフィリピンの地獄に引きずり込む。で、引きずり込まれた地獄の底で、観客も劇中の日本兵と一緒に「う〜ん、人肉か〜〜。確かに食っちゃえというのもわかるけどそれはちょっとどうだろうなあ〜〜〜〜」という煩悶を突きつけられるわけである。これは重い。なんせ観客にとっても生きるか死ぬかがかかった目前の問題だ。切実である。
『野火』はそんな異常なドライブ感のある映画であり、その点において凡百の反戦映画とは構造的に大きく異なる。なんせレイテ戦末期における日本兵の倫理観を強制的に追体験させてしまうのだ。外野から戦争反対を訴えるのとは訳が違う。見終わってから「ここが現代の渋谷でよかったなあ……」としみじみ思った。なんせキツい映画なんでそう何度も見られないけども、5年に一回くらい見たくなる映画だとは思う。
しかしそれにしても日本兵は大変だ。絶対にあんな目に遭いたくない。心の底からそう思える一本だった。