Everything's Gone Green

感想などです

怒れ!怒れ!消え行く光に! 『トゥモローランド』

 映画『トゥモローランド』を見た。ディズニーである。数年前までこんなにディズニーのお世話になるとは思っていなかった。ネタバレしてるので嫌な人はここから先を読まないでください。

 


Disney's Tomorrowland - Official Trailer 3 - YouTube

 

 この映画が始まる前、いつものディズニー映画ならシンデレラ城がでてくるはずのタイミングで出てくるのはトゥモローランドのアイコンだ。つまり「この映画におけるシンデレラ城はトゥモローランドですよ」と控えめに宣言されるところからこの映画は始まる。で、その映画本編の内容はシンデレラ城=トゥモローランドの再建の物語だ。行動力と知性を兼ね備えた天才たちが別次元に作り出した人類の英知の集約点であり巨大な未来都市であるトゥモローランドと世界全体の危機、それを救うために奮闘する少女とおっさんの物語が『トゥモローランド』の本筋である。

 

 が、ストーリーは割とどうでもいい。とにかくこの映画を作った人間は苛立ち、怒っている。何に怒っているかというとロケットを月に打ち上げたり革新的な都市計画で生活そのものを刷新したりしなくなった人類に対してだ。アイディアを出すより諦める方が楽だと気がついてしまった人々に対し「お前らそれじゃダメだろ!」と、ものすごい勢いでぶん殴る映画が『トゥモローランド』である。主人公ケイシーはケープカナベラルにあるNASAのローンチコンプレックスの解体作業を妨害していたことから、トゥモローランドの復活のための人材としてスカウトされる。カナベラルの発射台を守るために活動していた少女がトゥモローランドを守るための人材としてスカウトされるということは、つまるところこの映画を作った人たちの認識の上ではトゥモローランドNASAのローンチコンプレックスであり、そして前述の通りシンデレラ城がトゥモローランドとイコールで結ばれるとするならばシンデレラ城=ローンチコンプレックスである。人類を月に送り込んだロケットの発射台とディズニーが持てる技術の粋を尽くして作り上げた夢の国とが同じものであるとする視点がまず存在し、そしてその視点を持つ存在(『トゥモローランド』を撮った人々)は人類が月の向こうを目指さず、環境やその他の問題を解決するために劇的なイノベーションを起こしていないことに対して全く満足していない。都市に対して明確な計画を持っていたウォルト・ディズニー、そして劇中にも登場するエジソン、テスラ、エッフェル、ヴェルヌといった天才たちのように野心を持ち現状を打破するエネルギーを持たず、スノッブぶって諦めや折り合いをつけてしまったこの世界の現状に対し、ド正面から中指を突き立てる。弊害もあるし(この映画では核兵器のキノコ雲が何度も登場する)どうしようもないところもあるけど、それでも現状を打破するのは科学と人類のポジティブな力なのだという「でも、やるんだよ!」という精神で映画全体が徹頭徹尾貫かれている。ここまで輝かしい未来の力を信じている(もちろん批判も織り込み済みだろうけど)映画も昨今珍しい。

 

 思えば、昨年おれはこの愚直なまでの怒りと人類の起こすイノベーションに対する信頼を感じさせる映画を見た。『インターステラー』である。あの映画ではディラン・トマスの詩が何度も引用された。「穏やかな夜に身を任せるな 老いても怒りを燃やせ 終わりゆく日に 怒れ 怒れ 消え行く光に」というこの詩と、『トゥモローランド』の製作陣の心情はけっこう近いところにあると思う。トゥモローランドへのバッジを手に入れるのに相応しい人々はこのように現状を諦めず、穏やかな夜に身を任せなかった人々だ。そしてその象徴として登場するのがロケットの発射台というのがとにかく美しい。まっすぐに天に向かって飛んでいくロケットほど「未来」を感じさせる人工物もそうそうないだろう。

 

 もちろん、「誰がトゥモローランドに行くに相応しい人間を見極めるのか」という点で大きな疑問は残る。結局それを子供に託してしまったのはちょっと安直すぎるのではないかと思う。だけど、とにかくこの映画の「輝かしい、あるべき未来」を求めることをやめてはダメだ、それは死ぬのと同じだ、という強いメッセージの眩しさとそれを表現する事のまっすぐさには目が眩んで涙が出そうになる。その点だけでもまさに人類が月に行かなくなりずいぶん大人しくなってしまった今現在に作られ、公開されるべき映画だったと思う。

 

 ちなみに、おれがこの映画になんとなく似てるなーと思った映画に『遠い空の向こうに』という作品がある。ウェストバージニアの、ちっちゃい炭坑しかないド田舎の町で困った事にロケットに魅せられてしまった少年達が周囲の無理解(なんてったって周りはガサツな炭坑の男達しかいない)に苦しめられながらなんとかしてロケットを手作りして飛ばそうとする話だった。彼らもまたトゥモローランドに入る資格のありそうな少年達だったと思う。というかこの映画も長じてNASAの技術者になった人の実話なんだけど。まだ見てない人はこの映画も『トゥモローランド』と合わせてどうぞ。

車が吹っ飛び、モラトリアムは終わる。 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見た。

 ネタバレを気にするような映画ではないと思うけど、気になる人はここから先は読まないでください。

 


映画『ベルフラワー』予告編 - YouTube

 ちょっと前に公開された映画で『ベルフラワー』という作品があった。

 もはや神格化すらされている映画『マッドマックス2』の悪役であるヒューマンガス様に心酔し、まだ見ぬ"世界の終わり"に備えて火炎放射器付きの改造車「メデューサ号」を作ったり、自作した手持ちの火炎放射器火炎放射器ばっかりである)を試射したりで時間を潰しているウッドローとエイデンの無職ボンクラ2人組。しかしある日立ち寄ったダイナーで行なわれたコオロギ早食い選手権に出場したウッドローは同じく出場者だった女、ミリーといい感じになり付き合うように。舞い上がるウッドロー。しかし元々ミリーとデキていた間男のマイクとミリーのセックスの現場をウッドローは目撃してしまい、ショックで家を飛び出したら車に撥ねられて大怪我。退院して腹いせにミリーの友人と関係を持つも気分は晴れず、そこにマイクが「ミリーの荷物返せよ」と言ってきたからさあ大変、ミリーの荷物を彼女の自宅の前で焼き払ったりその復讐としてミリーがウッドローの顔にヒゲの入れ墨を入れたりと、どこから現実でどこから非現実なのか判然としない、夢と現を行ったり来たりしながらの報復合戦の果てにウッドローはどこにたどり着くのか……、という話である。

 この『ベルフラワー』、恋愛を扱った映画ではあるんだけど、おれは核戦争によって滅んだ世界という”ここではないどこか”を夢見ながら日がな一日火炎放射器を振り回して遊んでいる主人公ウッドローとエイデンの無職(無職っぽく見えたけど違ったかもしれない)コンビのほうが気になっていた。「このクソみたいな世界が核で燃え尽きちまえば、火炎放射器付きの車を作って準備しているオレたちの方が強者になれるのに!」とくすぶりながら日の高いうちからビールを啜る彼らの生活は本当に自堕落で、いい歳のおっさん2人が無理矢理モラトリアムを引き延ばしているようにしか見えなかった。気持ちはわかるけども。

 

 


Mad Max: Fury Road - Official Main Trailer [HD ...

 で、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。『マッドマックス』シリーズの第四弾にして最新作であるこの映画だけど、もうほんとこれが超ド級の大傑作だ。ストーリーは至って簡単。水と燃料と食糧が超貴重品になっている荒れ果てた世界で、流れ者のマックスが悪役イモータン・ジョーの軍勢にとっつかまる。が、ひょんな事からジョー配下の女戦士フュリオサとジョーの元で子どもを産むためだけに飼われていた女たちの反乱に同行することになり、最凶改造車軍団との決死の戦いに挑むというものだ。脳味噌がミジンコ程度しかない連中が考えたようなトゲトゲの改造車が派手に吹っ飛び、人がゴミのようにポンポン死ぬという地獄のだんじり祭りのようなゴキゲンな快作である。

 

 ストーリーの核となるフュリオサは実は元々ジョーの配下だったわけではなく、子どもの頃に誘拐され戦士として育てられた女であり、その子ども時代の記憶を元に、荒れ果てた世界の中で草木が生い茂る緑の地(彼女の生まれた土地でもある)を目指して、ジョーの飼っていた女たちと共に命をかけた大脱出を図る。しかし、たどり着いたその地はすでに土地の汚染によって枯れ果てていた。そこでフュリオサはさらに遠くを目指し、本当に草木を生やすことができる土地があるかどうかわからないにも関わらず、枯れ果てた広大な砂漠を踏破しようとする。

 その決断に待ったをかけるのがマックスだ。彼はそんな勝率の低い博打ではなく、水が潤沢にあり畑にすることができる土地もあるイモータン・ジョーの根拠地を奪い取ることをフュリオサに提案する。"ここではないどこか"にある理想郷を目指してエクソダスするのではなく、"今、ここ"で戦い、自らの生存を勝ち取ることを説くのだ。そしてマックスとフュリオサ、それに女たちは今まで乗っていた巨大なトレーラーを活かした最後の戦いに打って出る。"ここではないどこか"を夢見て行動することをやめ、"今、ここ"でジョーの軍勢と死闘を繰り広げた彼女達は、少なくない犠牲を払いながらもついに勝利し、彼女らの支配者の土地を自らのものにする。

 

 こうして見ると、つまるところ、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は"ここではないどこか"を探してウロウロするようなモラトリアムの終わりとその向こう側を描いた作品だ。虐げられ逃げ続けたフュリオサらが自分たちを蔑ろにしてきた支配階級に真っ向から勝負を挑み、それに勝つまでの死闘をハイカロリーな語り口で描いたのがこの映画である。だからこそ見終わった時になんだかよくわからない爽快感があり、有り体に言うとおれはけっこう感動してしまったのだ。

 

 『ベルフラワー』のウッドローは核戦争後の地球という"ここではないどこか"を夢見ながらダラけたモラトリアムの中でグズグズし、そしてこっぴどい失恋の果てに地獄のような、悪夢のような世界を見た。しかしウッドローの愛したマッドマックスの最新作では、坊主頭のシャーリーズ・セロントム・ハーディのマックスが雄々しく"今、ここ"でバカみたいな改造車をドンドコ吹き飛ばしながら戦い、そして勝利したのである。『怒りのデス・ロード』は、見ようによってはこれ以上ないくらい優しく(なんせファンが『マッドマックス』というタイトルに求めるものは2000%詰め込まれているのだ)「世界の終わりはまだしばらく来そうにないし、お前らもそこでもうちょっと頑張れよ……」と諭しているような作品だ、というのはちょっと穿ち過ぎだろうか。でも、終わってしまった世界の中でマックスとフュリオサは自らの場所を確保するべく戦った。それはやっぱり、おれには"ここではないどこか"を無責任に求めるのではなくて、お前が今いるその場所で戦え、という話に見える。

 

 聞けば『ベルフラワー』のストーリーは監督と主演を務めたエヴァン・クローデルの実体験に基づくものだという(その時の失恋の相手がミリーを演じたジェシー・ワイズマンだとか)。"ここではないどこか"を求めた自らが精神的に破滅する話を映画にしたこの人が、"ここではないどこか"を求める願望が爆発と轟音の中で終わり、"今、ここ"での死闘へと切り替わる『怒りのデス・ロード』を見てどう思ったのか、おれは今非常に気になっている。だれか聞いてきてくれませんかね。いや、ほんとに。

ボビー・バードの苦悩 『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』

 映画『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』を見た。"魂"のところは「ソウル」と読む。

 ネタバレになるかもしれないのでイヤな人はここから先を読まないでください。

 


Get On Up Official Trailer (2014) James Brown ...

 

 ファンキープレジデントにしてショウビズ界1の働き者、ゴッドファーザーオブソウル、ジェームス・ブラウン(以下JB)の伝記映画である。そういう内容ではあったのだけど、この映画はJBの映画に見えてJBだけの映画ではなく、彼を支えた女房役のミュージシャン、ボビー・バードの物語でもあった。

 話としては古典的。才能と努力、モーツァルトサリエリ、ペコとスマイル、(『バガボンド』のほうの)宮本武蔵吉岡伝七郎みたいなアレだ。ボビーは元々コーラスグループを組んでおり、慰問で車上狙いでとっつかまったJBが収監されている刑務所に赴く。そこでJBと劇的な出会いを果たし、身寄りのなかったJBの身元引き受け人となって一緒にバンドを組み、そこから一気にのし上がっていくJBの姿を常に一歩後ろから見続ける立場であり続ける。ボビーだって並のミュージシャン程度なら負けない程度の腕はあるが、なんせ相手はMr.ダイナマイト、20世紀最強のポップアイコンであるJBだ。妻を殴り気に入らないことがあると散弾銃をぶっ放すハタ迷惑な男でありながら、歌っても踊っても喋っても立っても座っても人々を魅了し視線を集める最強のエンターテイナーを目の前にして、ボビーはひたすら女房役に徹するしかない。元々JBの圧倒的才能を見極めて音楽の道に引き込んだのは自分であるにも関わらず。

 この映画の邦題がすでにそれを物語っている。この映画の現代は『Get on up』。これはJB最大のヒット曲である『Sex Machine』においてJBが「ゲロッパ!」とシャウトした後に被さる低音の「ゲロンナッ!」という間の手のフレーズであり、この「Get on up!」というフレーズを歌っていたのがボビー・バードだった。タイトルの時点でこの映画にはボビー・バードへの深いリスペクトが込められていることがわかる。が、日本で公開された時のタイトルは冒頭にも書いた通り『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』だ。

 誤解しないでほしいけど、おれはこの邦題にしたこと自体は非常に妥当な判断だと思っている。「Get on up」というフレーズを目にして「ああ、JBのあの曲のあのフレーズね」とわかる日本人はそうはいないだろうし、タイトルに「ジェームス・ブラウン」の文字がないのはマズかろう。映画の配給や宣伝というショービジネスのど真ん中にいる立場の人々がこの邦題を選ぶのは非常によくわかる。原題のままで公開するのは独善的な判断だという気すらする。

 

 でも、だからこそ、日本でのこの映画の公開において、一世一代の仕事であり代表作であるフレーズを切り落とされてしまったボビー・バードという人の悲哀は強く心に残る。なんせ「Get on up」というタイトルでは商売にならないのだ。映画本編で、パリでの公演が終わったJBに向かい「おれも一人でやってみたら、このくらいのホールはいっぱいにできるかな」と話を持ちかけたボビーは、JBによって「てめえおれのプロデュースで曲を出すからって調子のってんじゃねえぞ!誰のおかげでここまで来れたと思ってんだ!!おれと対等にでもなったと思ってんのか!?」と罵倒されて心をボキボキに折られ、彼のもとを去る。しかし、日本でこの映画を原題で公開できない程度にはJBのこの罵倒は正しかったのだ。そして、努力を重ねJBの後ろで演奏できるレベル(これがムチャクチャ大変だというのはこの映画でもきっちり説明される)に到達し充分腕のあるミュージシャンでありシンガーであるボビーにこの台詞を吐けるのは、生まれながらの天才であり、何があっても反省をしない男であるJBだけなのである。

 

 映画の終盤、JBと袂を分かって何年も経つボビーのもとをJBが尋ね、近所で開催される自分のショーのチケットを(ややツンデレ気味に)渡すシーンがある。そこでチラッとだけ出てくるその後のボビーの生活は、派手ではないにせよ一応庭にプールのある庭付きの一戸建てに住み、結婚もして穏やかに暮らしている、というものだ。そしてJBはその日のショーでなかなかに未練がましい一曲をボビーに捧げる。しかしきまぐれにそんな謝罪をブン投げることができるのもJBがJBだからだ(なんせその日の演目をいきなりぶっちぎっている)。神の恩寵を得た天才にだけ可能な謝罪。凡人は泣きながら受け入れるしかない。生まれながらに他者を圧倒し続けるほどの天与の才を持った人間にしか不可能なことというのは世の中に厳然と存在するのである。

 

 それにしても、その後のボビーが普通に生活していて本当に安心した。彼が野垂れ死んでいたりしたら……と考えるとおれの細い神経では耐えられそうにない。

越境者たちの物語 『チャッピー』

 映画『チャッピー』を見てきた。

 以下は多分ネタバレになるので、見ていない人は読まない方がいいと思う。

 


Chappie Official Trailer #2 (2015) - Hugh Jackman ...

 

 

 上映後の映画館で、僕たち大学のその手のサークルの友達同士です!みたいな男子の集団が「この映画『第9地区』じゃん!」「だよね!」みたいな感じのことを言っていた。確かに気持ちはよくわかる。チンピラ。ヨハネスブルグ。スラム街。PMC。ダネルやアームスコーのマニアックな火器。カルネージハートフロントミッションのような、兵器っぽいけどどこかゲームっぽいメカ。確かに道具立ては大体同じ。観た直後はおれもそう思った。

 『チャッピー』の監督はニール・ブロムカンプで、この人は大体いっつも同じような映画を撮っている、と思われている。スラム街が出てきて、マニアックな鉄砲が出てきて、そんでもって血まみれのアクションやゴア描写。でも、なんとなくおれが思うのは、平たく言うと、この人は毎回「越境した者の孤独と死闘」を描いているんじゃないか、ということだ。『第9地区』ではひょんな事からエビ宇宙人と人間の壁を越えることになってしまった小役人の孤独な死闘を描いたし、『エリジウム』では富める者とそうでない者の壁を構造的に破壊しようとした男の死闘を描いていた。

 彼らは、自らではどうしようもない理由で厳然と存在する壁を越境してしまった/しようとしたがために迫害され、いじめられ倒し、その中で見つけたあるかなきかの仁義のために体を張った大勝負に挑む。それはまるで昔の東映任侠映画のようだ。背中で泣いてる唐獅子牡丹。エリジウムの主人公マックスは高倉健のように全身にタトゥーが入っていた。それは望むと望まざるに関わらず、既存の社会から弾き出されてしまった者たちの物語であり、どんなに道具立てが目新しくてもギリギリのところで浪花節になるストーリーにおれはグッと来たのだ。

 

 翻って『チャッピー』である。根底のテーマは同じ。ロボット/機械と人間(というか「意識」を持った存在)の垣根を越え、越境してしまった者の孤独と死闘である。しかし、この映画で越境した者はチャッピー1人ではなかった。

 まず越境した者のうちの1人が、悪役であるムーアである。彼は自律したロボットが暴力を行使することを認めず、あくまで兵器は人間が扱うべきだとする男だ。本編では職場で拳銃を振り回す迷惑なおっさんであり、あんな人が同じフロアで働いてたら絶対嫌だとおれは思ったけど、とにかくその行動には恐らく従軍経験から来る一定の信念がある。そして、映画の終盤、彼は自ら作り上げた歩行する戦車のような兵器「ムース」を操縦し、機械と人間の垣根を越えてしまう。意識と感覚をムースと同期して遠隔操作する兵器を操る彼は、「兵器は人間が操作するべき」という信念を持ちながら、その信念ゆえに機械と人間の壁を越える。そしてその象徴というべきシーンが、日本での公開ではカットされてしまったアメリカの胴体がハサミで引きちぎられるシーンだったんだろう。それ以降彼は機械のようにチンピラを殺戮する。(余談になるけど、ムーアが人でなくなる決心をつけ、またアメリカという映画の主要登場人物の最大の見せ場を問答無用で切って捨てたソニーピクチャーズの姿勢にはやっぱりちょっと疑問がある。色々と事情があるのは承知の上だし、発表しなかったら誰も騒がなかったのでは、とは思うけども)

 そして映画の終盤、機械でありながら意識を持った存在であるチャッピ―は、人間でありながら機械となった男であるムーアと対峙する。チャッピーを作り上げたウィルソンが繰り返し植え付けようとした「創造性」が、ナイフに手榴弾をテープで括りつけて新しい武器を作る、という最も悲惨な形で結実しながら、である。ここには2人の越境者同士の対立構造が存在している。機械でありながら意識を持った存在と、人間でありながら機械になった存在。この戦闘で、チャッピーは機械と同化したムーアに対して、自らの意思で猛然と暴力を振るう。これまでのブロムカンプ作品に見られなかった、越境した者同士の死闘がここで描かれたわけだ。ただの悪役にしか見えないムーアに見え隠れした信念と、チャッピーが通そうとした仁義の激突。猛烈にエモーショナルな戦闘シーン(とにかく、自ら禁じていた銃の所持の禁を破ってグレネードランチャーを手に取り振り向くチャッピーのエモさはすごかった)だったとおれは思う。

 

 で、この映画にはまた別の越境者がいる。終盤に意識をロボットに植え付けられるウィルソンと、ヨーランディである。チャッピーにとっては造物主である存在と母である存在を、彼は自らの意思で死の淵から救い出す。思えばこれまでのブロムカンプ映画では、自らを越境させる主人公はいても他者を越境させる能力を持った主人公はいなかった。これだけでも『チャッピー』はいつものブロムカンプ映画ではないな、と思う。そして土壇場でチャッピーは自らにとって神であり母であるこの2人を無理矢理越境させることに成功する。これはこれまでのブロムカンプの映画にはなかった展開だ。大げさに言えばチャッピーは神にも等しい所行を成し遂げたのであり、そしてその事自体の是非はこの映画では特に言及されていない、ように思う。「こういうふうにしかならなかったんだよね……この人たちは……」と半ば投げ出すようにして観客の前に結末が投げ出されている。おれにもこの結末をどう飲み込んだらいいのか、実はまだあまり見当がついていない。「こういうふうにしかならなかったんだから、仕方ないよなあ……」くらいしか言葉が見つからないのがもどかしい。が、『チャッピー』はそういう映画だったんである。

 今書いたあたりの劇中のギミックがSF的にはかなりガバガバだったので、これを飲み込めるか否かがこの映画の評価のキモになるのは間違いない。おれはむりやり飲み込んだが、正直ちょっと胃もたれがしている。あれだけのガバガバギミックなので、飲み込めないなら飲み込まないほうがいいと思う。体を悪くする。

 

 ブロムカンプという監督は、同じようなテーマを同じような道具立てで扱っているようで、実のところちょっとずつ語り口や結論を変更してきている。特にこの『チャッピー』は越境せざるを得なかった者、越境させられた者、自ら望んで越境した者が入り乱れ、善悪が容易に入れ替わり、同じような道具立てで同じことを言っているようで、今までになく複雑な話を語ろうとしているようにおれには感じられた。どう総括していいのかなんだかよくわからない。でも、だからこそ、「え〜これって『第9地区』と同じじゃん!」といって切って捨ててしまうのはちょっともったいない気がしている。