Everything's Gone Green

感想などです

Dr.ストレンジ 恐怖の力道山道場

 アメコミ映画「Dr.ストレンジ」を見てきました。そのDr.ストレンジの話です。ネタバレを含むので見ていない人は読まないでください。

 

 

 死ぬほど傲慢な俺様野郎ながら将来を嘱望された天才外科医スティーヴン・ストレンジ。完全に調子こいていた彼は車の運転中にふとやってしまったながらスマホが原因でハチャメチャな事故を起こし、回復不可能なほど両手がズタボロになってしまいます。治療中にもリハビリの担当者を「お前ただの大卒やろ。おれの学歴はすごいねんで!」と見下しまくっていたりする彼ですが、手が動かないのではどうにもならないので荒みまくった上に貯金もなくなり、噂を頼りにネパールはカトマンズにある謎の寺院「カマー・タージ」に足を踏み入れ、そこでのちに彼の師匠となるエンシェント・ワンと邂逅。厳しい修行の末に幽体離脱とかなんか手から魔法陣みたいなのを出したりとか通り抜けフープみたいなのを操ったりとか、そういうのをできるようになるのであった……という、なんか「Dr.ストレンジ」はそういう感じのお話なんですけども。

 

 我々はもう一人、将来を嘱望されながらも事故でその道を断たれ、そして別ルートで大成した男を知っています。

 

 

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 そう、ジャイアント馬場です。新潟の三条実業高校在学中にスカウトされ読売ジャイアンツの投手となり、二軍と一軍の間をいったりきたりしていた馬場でしたがジャイアンツを解雇されてしまいます。その後大洋ホエールズのキャンプにテスト生として入団した馬場は、ある日宿舎の風呂場で石鹸を踏んで転倒、肩を負傷するという投手としては致命的なダメージを負ってしまいます。

 この怪我が元で野球界をさった馬場。「金がない」という理由で入ったラーメン屋で一人寂しくラーメンを食っていたところ、テレビで放送されていた力道山のプロレスの試合に目を奪われます。「大男の自分が飯を食うにはこれしかない!」と一念発起、藁をも掴む思いで力道山道場の扉を叩くのでした。

 

 どう見てもDr.ストレンジではないでしょうか

 

 映画「Dr.ストレンジ」にはいつまでたっても通り抜けフープみたいなやつを出せないストレンジくんに対し、師匠のエンシェント・ワンは自分の通り抜けフープでストレンジくんをエベレストのてっぺん付近に連れていって着の身着のまま放り出し、「戻ってきたかったら頑張って通り抜けフープみたいなやつを出しなさい。ちなみにそのままだと30分くらいで死にます」と、死に物狂いで練習させるシーンがあります。

 

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 ジャイアント馬場もこれにめっちゃ似ている目にあっています。馬場の練習から「こいつには死に物狂いの力が足らん」と見切った師匠力道山の手により、手足が動かないほどのバーベルを括り付けられた馬場はそのまま便所に蜂の巣と一緒に置き去りにされます。蜂に刺されるのが嫌なら死に物狂いになってバーベルを動かして逃げろ!という、さすがにちょっとどうなんですかというしごきなのです。エベレストに置き去りにされるのもつらいけど、これもけっこうキツいぞ!

 

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 案の定蜂に刺されまくる馬場。

 

 

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 「死に物狂いの力」でほんのわずかだがバーベルを動かす馬場。どうでもいいけど蜂が刺すたびにいちいち書いてある「チク」「チクッ」っていう擬音がかわいい。

 

 

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 頑張れ馬場!出口まであと少しだ!!

 

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 なんとか脱出に成功した馬場は晴れてプロレスラーとしての第一歩を踏み出すことになるのでした。めでたしめでたし。

 

 これ、映画見た人はわかると思うんですけど、Dr.ストレンジの通り抜けフープ習得シーンの雰囲気とめっちゃ似てるんですよ!特にこの力道山が他人事みたいに「だいぶさされたのう」っていう感じのノリと、なんとか道場まで戻ってきたストレンジくんに対するエンシェント・ワンの態度の感じがめっちゃ似てる!嘘じゃないんだよ!

 

 さらに映画の中盤、清廉潔白だと思っていたエンシェント・ワンが実は暗黒時空の暗黒パワーみたいなやつのおかげで寿命を引き延ばしていた(力道山もヤクザや右翼やフィクサー国会議員がひしめく暗黒時空から暗黒パワーを引き出していた)とか、エンシェント・ワンは結局悪いやつに刺されて死ぬ(力道山も赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で住吉一家傘下の大日本興行構成員村田勝志に刺された傷が元で死んだ)とか、エンシェント・ワンの力道山度数がめちゃくちゃ高くなっていくわけです。この時点でああもうこれ力道山じゃんと確信しました。

 さらにこの映画にはDr.ストレンジとは同門の兄弟弟子でありながら最後には袂を分かち暗黒面に落ちてしまうモルドさんという人が出てくるんですけども、もうこの人立ち位置からして完全に猪木じゃないですか。つまりこの「Dr.ストレンジ」という映画は馬場正平ジャイアント馬場となり、さらに同門の兄弟弟子だった猪木と対立するまでを駆け足で追った映画なのです。MCU、まさか力道山と馬場・猪木という日本人が大好きな要素まで取り込んでくるとは思わなかった……。

 

 ちなみに実質コミック版Dr.ストレンジと言える漫画「ジャイアント台風」ですが、文庫版が2002年に出版されております。さっきの蜂の巣のシーンは元より、エンシェント・ワンこと力道山とDr.ストレンジこと馬場の熱すぎる師弟愛、壮絶すぎるアメリカでの武者修行の様子(おれは対スカイ・ハイ・リー戦がめっちゃ好きです)、サンマルチノと馬場の熱い友情、お前誰やねんという感じですがやたら出てくるミノル少年など、見どころ盛りだくさん。ぜひ読みましょう。

ジャイアント台風―ジャイアント馬場物語 (1) (講談社漫画文庫)

ジャイアント台風―ジャイアント馬場物語 (1) (講談社漫画文庫)

 

 

1/22に見た映画

太陽の下で

 北朝鮮の市民の生活を追ったドキュメンタリー……なんだけど、この映画のキモがドキュメンタリーの撮影現場で「演技指導」をする北朝鮮の政府関係者らしき人物の様子が無断で映っちゃってる、という点だ。

 

 詳しくは公式WEBサイトをどうぞ。

映画『太陽の下で』オフィシャルサイト

 

 この映画でグッときたのは演技指導をする北朝鮮当局のおっさんの間抜けさ加減、そしてその合間合間に挿入されている、演技指導されている立場の北朝鮮の普通のおじさんやおばさんの、なんだかボケッとした表情だ。北朝鮮の人たちは特に疑問を抱いた表情を浮かべることもなく、「ああはいはい今回はあのパターンですね……」という感じで撮影班のカメラの前で指導に応じ、若干弛緩した空気を出しつつも、本番では我々がよく見る「躍進!主体思想!偉大なる同志金正恩万歳!」といういつものあのテンションをサッと出してみせる。「あ〜〜〜やっぱこういうの慣れてるのか〜〜〜〜〜〜」と思った。

 

 この映画は「ドキュメンタリーが嘘をつく瞬間を撮影することに成功したドキュメンタリー」である。そこに映しだされる北朝鮮当局の様子はどう見ても滑稽だし、それに付き合わされる北朝鮮の普通の労働者たち(でも多分彼らは「外に見せても大丈夫なレベルの普通の人たち」なんだと思う)はお勤めご苦労様ですという感じである。しかしだからこそ、この北東アジアの巨大なディストピアの様子には息を飲んだ。こんな見え見えのしょうもない演出でも「従わないと死ぬな……」という緊張感はビリビリ走っているし、言いたいことも言えないよな、これは。

 

 それと同時に、この映画もまた撮影者の意図に基づいて編集されたものである。胸に迫るあのラストの少女の涙も、多分撮影されたのは割と最初の方のタイミングなんじゃないかという気がする(論理的根拠はあまりありません)し、そもそも撮影班が密着したあの一家は北朝鮮では比較的裕福な方だと思う。なにが虚でなにが実か、見ているうちになんだかよくわからなくなってくる感じは、ひとつ前のエントリに書いた「ど根性ガエルの娘」にちょっと通じるものがある。ドキュメンタリーの虚実という点に関して何かしら思うところがあるならば、去年の「FAKE」と同じくらい見ておいた方がいい映画だと思う(偉そうですね、どうにも)。

 

ザ・コンサルタント

 これは変な映画!予告やポスターの印象では「昼は会計士、夜は暗殺者!」みたいなダークヒーローっぽい雰囲気だったしベン・アフレックバットマンだしで、「イコライザー」とか「ジョン・ウィック」みたいな感じを予想していったらぜんぜんそんな内容じゃなかったのである。

 

 主人公ベン・アフレックの仕事は会計士なんだけど、実は彼は子供の時から重度の自閉症で、チカチカする光も轟音も肌触りの悪い服も死ぬほど苦手なんだけど元軍人のスパルタ親父に鍛えられて今では立派な表裏両方の仕事を受け持つようになりました……という設定。このベン・アフレックが本当にすごくて、ガチムチな体と完全に死んだ目の説得力が凄まじいことに。そして「一度引き受けた仕事は絶対に投げ出さない。なぜなら彼は自閉症だからだ!」という発達障害を逆手に取ったアドバンテージ、いきなり「ウォーリアー」みたいになる終盤などなど、不思議な構成要素がてんこ盛り。とりあえず普通のアクション映画にはしたくなかったんだろうな……という気分になった直後に「普通……普通ってなんだ……」と考え込んでしまうこと必至。不思議な映画でした。嫌いじゃないです。

虚実の彼岸 ど根性ガエルの娘

 今から漫画「ど根性ガエルの娘」とかのことを書くので、できれば以下のリンクの漫画を読んで来てくださいね。

 

r.gnavi.co.jp

ど根性ガエルの娘 1 (ヤングアニマルコミックス)

ど根性ガエルの娘 1 (ヤングアニマルコミックス)

 
ど根性ガエルの娘 2 (ヤングアニマルコミックス)

ど根性ガエルの娘 2 (ヤングアニマルコミックス)

 

  

 そしてこのリンクの「15話」を読みましょう。

http://www.younganimal-densi.com/ttop?id=78#

 

 読みましたか? 読みましたね。怖かったですね。恐ろしかったですね。

 

 我々はフィクションを消費する時、知らないうちに「この話はこういうジャンルだからこういう感じになるはずだ」と、これまでの経験や期待からどこかで決め込んでしまう。この「ど根性ガエルの娘」はその決め込みを利用した極上のミステリだ。

 

 田中圭一の「ペンと箸」で取り上げられた際のストーリーは「スランプやギャンブル狂いや借金と色々波乱万丈だったけど、今では家族揃って平穏にやってます。そんな父の好物はみんなで食卓を囲んで食べる焼肉! おいしいですよね!」という、ちゃんと読者にカタルシスをもたらしてくれるものだ。これに続いて始まった、ど根性ガエルの作者吉沢やすみの実の娘である大月悠祐子の「ど根性ガエルの娘」でも、連載当初はこのカタルシスをもたらした構成は守られる。若くして成功してしまった父とどこか抜けた母のなれそめ。シャレにならないエピソードだって今だから笑えるよね。絵柄もホンワカしていて、なんというか便所でも読める内容。家族を扱ったエッセイ漫画ってこうだよね。わかるわかる。

 

 しかし、娘である作者が誕生した後の話になる2巻の第8話から漫画のギアは一気に切り替わり、到底便所で読める家族エッセイ漫画とは言えない内容に激変。そして昨日公開された15話では、ついに読者が勝手にホンワカしていた場所は実は巨大な地雷原であったことが明かされてしまう。もうこれね、本当に見事な叙述トリックですよ。おれたちは巨大な爆弾の上でボンヤリと茶を飲んでいた。なんと無神経でアホなのか。そこは最初から愛憎渦巻く血なまぐさい戦場であり続けていたのだ……。個人的にはオセロで相手が一気に盤面をひっくり返してしまった時のような、暗い興奮があった。

 

 最初に田中圭一が取材したのは大月の弟なので、父親に対する主観的な評価は全然違う可能性はある。しかし、語られていないことが数多く埋まっており、そのバックグラウンドは果てしない情報量がある。もはや「吉沢やすみの娘自身が描いた」という触れ込みで公開された今までの14話のどこに爆弾が埋まっているかわからないし、誰が本当のことを描いているのかもわからない。多分全部本当なんだとは思うけど、しかしそれにしても、こんな地雷が埋まっているのを見せられて、「今までの話は本当です」とは到底思えない。実録という触れ込みを巧妙に利用した、まさにミステリ的な読み心地である。虚実の判別なんて意味はないし、よく考えたらおれだって父に気を使って心にもないことを言った覚えはある。家族というのは虚実や善悪の彼岸にあるものなのかもしれない。

 

 しかししみじみと恐ろしいのは最初に「ペンと箸」を描いた田中圭一だ。田中圭一は有名漫画家の絵柄を勝手に流用して下ネタや下世話なギャグを描きまくるお下劣専門の漫画家と思われているが、その実大変に読者という君主に向けたサービスを欠かさない、まるで中世の道化師というか、モンティ・パイソンの「村のアホ」のコントのようなタイプの漫画家である。「ど根性ガエルの娘」ほどの事態ではないにせよ愛憎入り混じった感情を抱えた父と娘は世の中にたくさんいるだろうが、田中圭一吉沢やすみ一家とは赤の他人で、そして邪悪なサービス精神に満ちた作家だ。普段は巨匠の絵柄でお下劣ギャグを描いている田中圭一がその絵柄のままで有名漫画家たちの個性的でちょっぴり泣けて、しかも全人類共通の関心事である「食」に関するエピソードを紹介する。これほど固い企画もなかなかない。そして田中圭一は読者の需要を見逃さず、実際にはまだ全然ケリがついていないストーリーをあんな美談にまとめあげたのである。

 

 これは別に田中圭一を非難しているわけではなく、逆にすごいなと思っている。まさに職人芸。事実、大半の読者は「う〜んいい話だ」とこの漫画を読んだはずだ。そしてだからこそ、その職人芸を逆手にとって15話で「焼肉」の伏線を鬼気迫る方法で回収した大月悠祐子によるどんでん返しが冴え渡るのである。いや、これはほんとに恐ろしい話ですよ……。

 

 それにしてもグッとくるのは、大月悠祐子はこの状況で「Piaキャロットへようこそ!!2」とか「ギャラクシーエンジェル」とかゼロ年代前半の能天気なオタクコンテンツの漫画を描いていたのか……という点。なんというか、もうあらゆる意味で職人芸としか言いようがない。

女の子のプラモ

 女の子のプラモデル、というものが世の中では売っている。なんやそれ、という感じだけど、売っているのだから仕方がない。それも、昨今バカ売れしている。

 

www.kotobukiya.co.jp

 言ってしまえば、上のリンクのようなやつである。アクションフィギュアではない。プラモデルである。島田フミカネの、フミカネ絵の女の子が、バラバラに分解されて、型を取られて、複製されて、箱に詰められて、数千円で取引されている。

 

 それは犯罪なんじゃないのか。

 

 そういうものを作ってみたという話です。

 

 今回作ったのは、このキットだ。

www.kotobukiya.co.jp

 普通にヨドバシで買って帰ってきたんだけど、箱を開けてみるとガサッとランナーが入っていて、一見普通のプラモデルである。しかし、よく見ると女の子の体が文字通りバラバラになっており、髪の毛とかも毛先がハネている部分とかは別部品になっている。毛先がバラバラなのだ。なるほどプラモデルで毛先を作ろうとするとこうなるのか、と感心する。

 

 で、とりあえずパチパチ組み始めるんだけど、一番気になった頭の部分から組んでいくと、これがなんというか、よくできている。可愛いのである。ついさっきまでバラバラの部品だったのに、ちょびっと部品を組み合わせると、そこには島田フミカネの、あの微妙にボーッとしてどこに焦点があっているのかよくわからない目つきの女の子の首ができている。

 

 なんだこれは、と思いましたね。

 

 続いてその首の下の胴体を作ったのだけれど、ここでびっくりしたのが、とにかく部品が小さいということだった。普段おれはよくアメリカ製のアクションフィギュアで遊ぶのだけど、ほぼ同スケールの6インチフィギュアに比べて、このキットの胴体なんか1/5くらいの大きさしかない。肩が薄い。胴体の部品なんか1/48のジープのボンネットくらいの大きさしかない。そうか、フミカネ絵の女の子は1/12にするとこんなに小さいのか……。よくわからない納得が心の底から湧き上がってくる。

 

 この女の子のプラモデルは関節が動くようになっている。だから当然膝や肘の部分はひねったり曲がったりするようになっているし、その部分は部品が分割されている。分割されているということは自分で組み立てなくてはならないということであり、組み立てなくてはならないということは組み立てなくてもいいということだ。

 

 頭を作って小さな部品を使って胴体を作って、手足の付け根の部分になるパーツを胴体に取り付けたところで、はは〜ん、と思いましたね。これ、ロボットとかだったら単に組み立て中で済む話なんだけど、今回は女の子である。単に組み立て中では済まない。プラモなのにおれが知ってるプラモじゃない。人体の迫力。途中なのに「なんかもうこれでいいか」という興奮がある。

 

 

 

 あまりにも「作りかけの女の子プラモ」の迫力がすごかったので、こういう感じで、四肢切断された状態のものを作ることになってしまった。ガワのメカ部分はいつもやっている工作だからものすごく新鮮とかそういうことはないんだけど、とにかく女の子の部分は試行錯誤の連続である。特にグッときたのはデカールを貼っているときだった。

 

 

 

 コーションマークのデカールを皮膚に貼った瞬間、人間というより、なにか物っぽい質感が一気に立ち現れてめちゃくちゃグッときた。顔面に刺青をした縄文人もこんな心境だったのかもしれない。知らんけど。

 

 というような色々があって完成した。

 

【立体】「BUG [U.S. Marines s/n 0-17411]」イラスト/gerusea [pixiv]

 

 やってて一番楽しかったのは、人体の表面にデカールを貼る工程だった。あまりにも未知のジャンルの模型だったので反省点も多いけど、女の子の模型、もうちょっとやってみたいっす。

ローグワンのこと

 今まで全然ローグワンについて何かを書く気になれなかったんだけど、それはそれとしてローグワンは去年見た映画の中では一番面白いタイトルだった。

 

 この映画はスターウォーズのオタクに対して、「お前はスターウォーズに何を求めていたのか」と問うてくるタイプの作品である。EP7が「観客全員が『スターウォーズを見た』と納得できる作品」を志向した開かれた映画であるのに対し、ローグワンは確実に閉じている。なんせEP4という、すでに遠い昔に作られ終わった映画に収斂するように作られた作品なのだ。言ってしまえばハナからある程度は内輪向け、ガンダムで言えばMSV、オタク大暴走みたいな映画である。

 

 でもね〜〜これがね〜〜よかったんですよ。

 

 ローグワンは明確に「絵面とディテールで人間を納得させる」ことを目指した映画である。そしてその絵面の内容というのが、ズバリ戦争である。内戦下のシリアのような風景の中をAT-STが歩き回り、ブラスターを抱えたストームトルーパ—が銃座のついたMRAPみたいなクルマのまわりを歩いて移動している。ようやくスターウォーズメタルギアソリッド4に追いついたのだ。そして後半のスカリフの戦闘に至ってはもう完全にベトナム戦争だ。反乱軍の兵士はスチールヘルメットにM69ボディアーマーを着てジャングルの中を歩き回り、UウイングのドアガンでAT-ACTの脚を撃ちまくるのである。戦争だ。ローグワンはスターウォーズで戦争をやった映画なのである。血が沸かないワケがない。

 

 スターウォーズは実在の兵器や兵士の服装のディテールをこれまでにないレベルでSF映画にぶっこんだタイトルである。だからそれが「リアル」だとされたし、数多くのフォロワーを生んだ。そして、その中心にいた人間がジョー・ジョンストンである。マクウォーリーと並んでスターウォーズのデザイナーの巨頭とされるジョンストンだが、ティム・ホワイトやクリス・フォスなど70年代SFアートの強烈なエッセンスを漂わせているマクウォーリーと比較するとそのセンスは圧倒的にモダンだ。そしてジョンストンの仕事は圧倒的なミリタリー的情報量に満ちている。なんせドイツ軍パイロットに倣って反乱軍パイロットの脚に信号弾の帯を巻いたのはこのジョンストンなのだ。えらい人なのである。

 

 そんなジョンストンたちが1976年にやった仕事に立ち向かい、そしてまさにローグワン本編同様にバタバタと倒れていったのがローグワンのスタッフである。圧倒的な普遍性を持つスターウォーズのデザインに立ち向かい、そして挫折していく過程を綴った本当に残酷な書籍が、「アート・オブ・ローグワン/スター・ウォーズ・ストーリー」だ。いやこの本マジでキツいんですよ……。

 

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

 

 

  ローグワンはEP4に収斂することがあらかじめ決まっている映画である。だからこの映画で足される新要素もEP4に収斂しなくてはいけない。そしてこの映画で足された新要素は最後にはキレイに消え去ることがあらかじめ決まっている。この「アート・オブ・ローグワン」は、そんな最初から負けが決まっているような戦いに挑んだプロダクションデザイナーたちの死闘の記録だ。ひとつひとつのデザインに盛り込まれた新しい要素が削られ、没になり、そして最後にはジョンストンという巨大なシールドにぶつかって爆死する。そりゃ最初からわかってはいたけど、それぞれのデザインの結末を見ると切なくなる。

 

 それと同時にこの本で分かるのが、ローグワンは明確に戦争、それも20世紀の半ばに戦われたいくつかの戦争を志向していたという点だ。巻頭に掲載されているイメージボードを見た時におれは戦慄した。キリングフィールドに積み上げられた頭蓋骨のように無造作に積まれたストームトルーパ—のヘルメットの脇で銃を担いで立つ反乱軍の兵士。まるで1960年代の東南アジアで撮られた写真のような絵面。それなのにスターウォーズ。おれはこの足し算のセンスに痺れた。これは1976年には不可能だった仕事である。なんせ当時はベトナム戦争だって終わった直後だ。ジョンストンが20世紀の東南アジアの戦争を咀嚼するのは時間的に近すぎる。これは2016年だったからこそできたことだと思う。ローグワンのプロダクションデザイナーは、その一点においてルーカスという安全弁がついていたジョンストンたちの仕事に勝った。

 

 思えばスターウォーズはタイトルにウォーズってついているにも関わらずあんまりマジメに戦争をやろうとしてこなかった。ルーカスが志していたのはあくまで素朴な活劇だったので、戦争はあくまで辺縁のディテールに留まっていた。しかしローグワンは違う。「戦争SFとしてのスターウォーズ」が初めて顕現したのである。そしてそれこそがおれの見たいものだった。おれはスターウォーズに戦争をしてほしかったのである。チャチなCGアニメのクローン大戦なんかじゃない、あの世界で行なわれる本物の戦争が見たかったのである。そりゃもう泣く。泣くしかない。

 

 「戦争を志向し表現する」というその一点の純度において、ローグワンはEP4を上回ることができた。だからおれはこの先どんなにつまらないスターウォーズの新作を見せられてもニコニコしていられるだろう。なぜなら、おれにはローグワンがあるからだ。

1/9に見た映画

ドラゴン×マッハ!

フタをあけてみるまでこの映画が『SPL2』だってことがわからなかった映画。まあこれをSPL2だと知らずにボンヤリ見たのはおれくらいのものだろう。ワハハ。

とにかく殴り合いのシーンは全編ベストバウトな勢い。ガチンコのハイスピードな殴り合いの映画なんだけど、その上ベタベタな難病ものでもあり火傷しそうなほど熱いバディものでもあるという、漢のお子様ランチみたいな映画でした(無論女子が見ても面白いです)。

しかしあの獄長、すごかったですね。極端なツーブロックでビシッとスーツを着こなし、ウー・ジンの打撃とトニー・ジャームエタイを捌いて捌いて捌きまくる。実写映画なのにひとりだけSNKの格ゲーみたいな別格の存在感でありました。その上エンドロールで流れるテーマ曲の歌詞がドン引きするほど熱量がある。必見。

 

あと、おれはようやく気がついたんだけど、『SPL』ってタイトルはアレですか、『殺破狼』の頭文字をとったタイトルなんですか。知らなかった。

 

ホワイトバレット

アジア最強クラスのフィルムメーカーの一人(だとおれが勝手に思っている)ジョニー・トーの新作。

基本病院の中での駆け引きがメインなんで印象としてはどうしても地味なんだけど、銃撃戦はさすがのトリッキーさ。「もしもジョニー・トーがOK GoのPVを撮ったら」というようなアイデア満載のシーンでありました。あそこだけ500円くらいで見せてくれねえかなあ。

あとジョニー・トー作品にしては画面の色が妙にパキパキで近代的な病院の表現としてはピシッと馴染んでいたんですけども、なんかいつもと違うカメラとか使ってるんでしょうか。知りたい。

しかしトーさんはもう「エグザイル 〜絆〜」みたいな「努力! 友情! 銃撃戦!」みたいな映画は飽きちゃって、なんだかやるせないノワールの方に興味が行っちゃったんですかね。ちと残念。

「この世界の片隅に」を見て思い出したこと

   映画「この世界の片隅に」を見た。正直パッと感想が固まる気分でもないので、この映画を見てなんとなく思い出したことを書こうと思う。

   思い出したのは母方の祖母のことである。母方の祖母はすずさんよりもちょっと年下で、いまでも存命で、祖父とともに岐阜の山の中で暮らしている。最近は1人で山に登って降りてくるのはさすがにキツいようだが、いまでも遊びに行くとやれ今年取れた落花生を炒ったものだとかこの間干した干し柿だとかお歳暮でもらった饅頭だとかを出してくれるし、驚異的な速度でお茶をいれてくれたりする。そもそもあの年代である程度田舎に住んでいた年寄りは驚異的によく働く。この祖母も、未だに家から近い畑の面倒は自分で見ている。起きて動いている間はなにかと働いていないと落ち着かない、そういう感じの人である。

 

   祖母が嫁いだのは地元でもそこそこの規模の豪農であった。曽祖父(つまり祖母からすると舅である)は地元で初めて洋装で外を歩いた人として有名で、昭和のはじめくらいまでは小作人に土地を貸し出しているような立場の人であったらしい。あったらしい、というのはこれらの土地は遠い昔にGHQの農地解体でバラバラにされてしまっていたからで、おれが生まれたころはおろか、おれの母親が生まれたころには「そこそこでかい百姓の家」という程度になっていた。曽祖父はずっとGHQの悪口を言っていたらしい。

 

   祖母がその家の嫁さんとして選ばれた理由は、「とにかく頑丈でよく働きそうだから」というものだったらしい。まるで農機具感覚である。旦那さん、つまりおれの祖父は前述の家の三男坊であった。三男なのでもともとは家督を継ぐ立場にはないが、出征した上の2人の兄が死に、繰り上がる形で家を継ぐことになったという。祖父にその上の兄らが戦死しいよいよ戦局が差し迫った時にどう思ったか聞いたことがあるが「おれもボチボチかなあ、と思いつつ、裏の山に登って蔵で見つけた日本刀を振り回して竹を切っていた」というもので、なるほどそんなものかなあ、と思ったのを覚えている。今思うと祖父なりに切羽詰まった思いもあったのではと思うが、切っていたのは竹である。まあそのへんにたくさん生えてるもんな、竹……。この祖父は変わった人で、若いころは緑色の革ジャンを着て山羊髭を生やし、単車に乗ってそこらを走り回っていたとのことで、まことに祖母の苦労が偲ばれる。おれが生まれたころには酔うと話の規模がでかくなる(大抵最後は宇宙規模になる)ただの好好爺になっていたので、祖父がイージーライダーみたいな感じだったころのことはおれは知らない。

 

   祖母に戦時中のことを聞いてみたことがあるが、それほど差し迫ったものではなかったようだ。要約すると「防空壕に出たり入ったり、という訓練はしたものの、このあたりは田舎だから特に空襲にあったということもなく普通に畑の面倒をみたりしているうちに戦争は終わっていた」という感じであり、戦時中のエピソードとして特に際立ったものは聞いたことがない。実際特になにもなかったのだと思う。今ではリフォームしてしまったが、おれが小学生のころまでは戦前どころかいつから建っていたのかいまいちよくわからない家がそのまま残っており、焼けたり建物疎開にあったり、ということが特になかったのがその照明であるように思う。

 

   そんな祖母だが、いまだに思い出話をする時に鋭い目つきになるエピソードがある。「1人で餅をついた」という話である。ちなみに戦後の話ではあるらしい。地味だ。

 

   ある日、舅(つまりおれの曽祖父)が、いきなり餅を食べたいと言い出した。時期は正月でもなんでもなく、餅の備蓄なんてどこにもない。知っての通り、餅というのは餅米を臼と杵で突いて作るが、その前にも釜とせいろを準備して火を起こし餅米を蒸す……というような準備段階がいろいろとあり、けっこうめんどくさい食い物である。今のような餅つき機などない。姑に手伝いを頼むなどもってのほか、旦那も単車に乗ってどこかへ出かけてしまっている。

 

   祖母は仕方なしに、とりあえず釜とせいろを用意し、餅米を蒸し始めた。餅を突く時はこの蒸した米を臼にあけ、熱いうちに杵の先で米粒を潰してなんとなくひとかたまりの状態にし、それから皆知っている餅つきの動作になる。すなわち、杵でぺったんとついては横に控えている人がその餅を返し、またついては返す……というのを何度も何度も繰り返えすことで、あのネバネバした餅になるのである。祖母はそれを全部1人でやった。すなわち、1人で杵を振り下ろしては臼に近寄って餅をひっ繰り返し、また杵に戻って1回ついては臼に近寄ってひっくり返し……というのを、なんと3臼(臼一回分の餅の単位としてうちの実家では1臼、2臼という言い方をした)も繰り返したという。驚愕の労働量である。めでたく突いた餅を、曽祖父は食ったそうだ。その時の感想がどういうものであったのか、祖母はなんらかの形で労われたのか、おれは詳しいことは知らない。知らないが、「あれは本当に大変やった」と数十年が経過しても鋭い目つきで回顧する祖母の姿からなんとなく察することはできる。さぞかし大変だったのだろうと思う。絶対にやりたくない。

 

   「この世界の片隅に」を見て思い出したのは、この祖母のことであった。感想がまとまらないので、とりあえずこれを感想の代わりにしておく。