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Everything's Gone Green

感想などです

でもいいの?ホントにそれで。『ヤクザと憲法』

 ヤクザは社会のダニであり、反社会的集団であり、望んで犯罪者になった連中の集団なので容赦はいらない。奴らに人権なんかない。ヤクザにならない自由だってあるのに、すすんでヤクザになった人間なのだから、全てのリスクは本人が負うべきだ。

 

 もっともだ、と思う。しかし、その一見もっともな意見に対し「ホントに?」と切り込んでいくドキュメンタリー映画が『ヤクザと憲法』である。なぜ憲法か、と言えば、はっきり言って現在のヤクザは憲法14条に規定された法の下の平等の埒外に置かれているからだ。

 

 本物のヤクザである大阪の指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」の事務所に東海テレビのスタッフが入り込み、長期間の取材を経て完成したこの映画には、現在のヤクザの生々しい生活がそのまま映っている。夏場には事務所のテレビで高校野球を観戦し、「ヤクザも高校野球見るんだ……」と思った次の場面では試合を見ながらなにやら札束を封筒に小分けにしているヤクザのおっさんが映る。彼は「何をしているんですか?」というスタッフの質問に対し「野球や。高校野球」と短く答える。高校野球に関する小分けにされた札束……。意味深すぎる。

 

 また、飯を食っているヤクザの携帯が突然鳴り出し、短い会話の後にどこかの住宅地へ車で入っていくシーンもどぎつい。住宅の入り口で「なにか」を手渡し、「なにか」を受け取って車へ戻ってくるヤクザに対し、取材陣は「覚醒剤ですか?」とノーガードの質問をぶち込む。「まあそう思うんならそうなんじゃないですか……」という感じで言葉を濁しつつ車を運転するヤクザ。我々が想像する「ヤクザのシノギ」にかなり近いシーン。このあたりは「ヤクザの実態を追ったドキュメンタリー」に期待されるような見世物小屋的な要素を満たしていると思う。

 

 しかし、事務所で部屋住みの若い衆が寝泊まりしている部屋に置かれているのはなにやらかわいらしい動物(犬とかネコとかだ)の写真集。一見ヤクザの事務所には似つかわしくない本だが、聞けば服役中は大変つらいのでこういったかわいい動物の写真を見て癒やされるのだという。また、前述の「高校野球に関する現金が入った封筒」を放り込んでおく袋はサーティーワンのビニール袋だ。ヤクザだってつらいときは動物の写真集に癒やされるし、サーティーワンでアイスを買って食ったりするのである。

 

 このように取材陣はヤクザの事務所でカメラを回し続け、ヤクザたちの妙に人間的な瞬間を捉える。ヤクザと言っても大半は40〜60代のおっさんばかりであり、ヒマそうに事務所でお茶を飲みながら世間話をする姿は近所の気の良いおっさんといった感じである(小指がなかったりするが)。年の瀬には紅白歌合戦を見るし、普通の人間に混じって外で飯を食ったりするのである。しかし、時には下手を打った若い衆をシバき倒し(余談だがこのシーンでは部屋の中にカメラは入れてもらえない。声だけでも充分怖かった)、ヤクザには欠かせない義理ごとに赴くときはビシッとしたスーツに着替えたりする。

 

 現在の彼らは暴対法によって非常に理不尽な目にもあう。保険に入れず銀行口座も作れず、口座から引き落とせない給食費を現金で学校に持っていくから子供の親がヤクザというのが一発でバレる。とにかくやることなすこと全て制限されており、画面からもヤクザらしい羽振りの良さはまったく見られない。交通事故のために保険を適用しようとしたヤクザが逮捕され、大阪府警のマル暴が事務所に乗り込んでくるシーンは本作の白眉だ。どちらがヤクザだかわからないくらいの恫喝が取材陣にも及び、思わず見ていて首をすくめるほどのスリルである。ことほどかように、ヤクザは今弱っているのだ。

 

 

 ヤクザを弁護する弁護士だって無関係ではいられない。山口組の顧問弁護士は山口組の顧問弁護士であるというだけで弁護士資格を剥奪され、廃業に追い込まれる。『ヤクザと憲法』の後に公開された『ブリッジ・オブ・スパイ』では冷戦期のアメリカでソ連のスパイ(ヤクザどころではない激ヤバ弁護対称である)を弁護することになってしまったトム・ハンクスが主役だったが、あの映画ではアメリカ国民にとって唯一にして最大の規範である合衆国憲法に基づき、あくまで人間としてソ連のスパイを弁護する弁護士がヒーローとして描かれた。現在の日本で起きているのは1960年代のアメリカよりも後退した事態ではなかろうか。

 

 

 この映画で強烈だったのは「ヤクザも人間」という、当たり前の事実だった。おれは大学の時に『仁義なき戦い』を見てからヤクザ映画の面白さにシビれ、ヤクザ史を読みあさるうちに(面白いんですよこれがまた……)彼らをフィクションとして消費することに慣れきっていた。思えばヤクザはニンジャもサムライもいない現代の日本に残された、最後のファンタジーのひとつである。それが証拠にハリウッド映画でウルヴァリンプレデターと渡り合う日本人は皆ヤクザだ。それらを面白がっているうちに、彼らはスパイダーマンやエイリアンと同じ枠に収まってしまっていた。それは「自分とは次元の違う存在」という枠に押し込めることで無関係の存在と見なす、一種の思考停止だったのではないか。

 

 しかし、当然ながら彼らは人間である。ネコの写真集も見るしサーティーワンにも行くのだ。そして現在の法体系の下では彼らが満足に人間らしい生活ができるかと言えばそうではない。

 

 この映画に登場する若い部屋住みのヤクザは、元は引きこもりだったのがドロップアウトしてヤクザになったのだという。大晦日に事務所で紅白歌合戦を見ながら老ヤクザに諭されていた彼は結局ヤクザを辞め、食うに困ってコンビニ強盗をやって捕まっていたそうだ。

 

 

  あの部屋住み君、不器用そうだったもんな……。と思う反面「ヤクザがセーフティーネットになってる社会ってどうなんすかね」とも思う。この「どうなんすかね」という感じは取材陣による「ヤクザを辞めたらいいのでは」という質問に対する清勇会の川口会長による「どこで受け入れてくれる?」というヘビーすぎる逆質問へと行き着く。おれにはこの質問に対する回答は用意できない。

 

 ヤクザは社会悪であり屑である、と断罪するのは簡単だし単純だ。そしてこの映画はその単純さに対し「でもいいの?ホントにそれで」と鋭すぎる問いを突きつける、極めてシャープな作品だった。