読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Everything's Gone Green

感想などです

越境者たちの物語 『チャッピー』

 映画『チャッピー』を見てきた。

 以下は多分ネタバレになるので、見ていない人は読まない方がいいと思う。

 


Chappie Official Trailer #2 (2015) - Hugh Jackman ...

 

 

 上映後の映画館で、僕たち大学のその手のサークルの友達同士です!みたいな男子の集団が「この映画『第9地区』じゃん!」「だよね!」みたいな感じのことを言っていた。確かに気持ちはよくわかる。チンピラ。ヨハネスブルグ。スラム街。PMC。ダネルやアームスコーのマニアックな火器。カルネージハートフロントミッションのような、兵器っぽいけどどこかゲームっぽいメカ。確かに道具立ては大体同じ。観た直後はおれもそう思った。

 『チャッピー』の監督はニール・ブロムカンプで、この人は大体いっつも同じような映画を撮っている、と思われている。スラム街が出てきて、マニアックな鉄砲が出てきて、そんでもって血まみれのアクションやゴア描写。でも、なんとなくおれが思うのは、平たく言うと、この人は毎回「越境した者の孤独と死闘」を描いているんじゃないか、ということだ。『第9地区』ではひょんな事からエビ宇宙人と人間の壁を越えることになってしまった小役人の孤独な死闘を描いたし、『エリジウム』では富める者とそうでない者の壁を構造的に破壊しようとした男の死闘を描いていた。

 彼らは、自らではどうしようもない理由で厳然と存在する壁を越境してしまった/しようとしたがために迫害され、いじめられ倒し、その中で見つけたあるかなきかの仁義のために体を張った大勝負に挑む。それはまるで昔の東映の任侠映画のようだ。背中で泣いてる唐獅子牡丹。エリジウムの主人公マックスは高倉健のように全身にタトゥーが入っていた。それは望むと望まざるに関わらず、既存の社会から弾き出されてしまった者たちの物語であり、どんなに道具立てが目新しくてもギリギリのところで浪花節になるストーリーにおれはグッと来たのだ。

 

 翻って『チャッピー』である。根底のテーマは同じ。ロボット/機械と人間(というか「意識」を持った存在)の垣根を越え、越境してしまった者の孤独と死闘である。しかし、この映画で越境した者はチャッピー1人ではなかった。

 まず越境した者のうちの1人が、悪役であるムーアである。彼は自律したロボットが暴力を行使することを認めず、あくまで兵器は人間が扱うべきだとする男だ。本編では職場で拳銃を振り回す迷惑なおっさんであり、あんな人が同じフロアで働いてたら絶対嫌だとおれは思ったけど、とにかくその行動には恐らく従軍経験から来る一定の信念がある。そして、映画の終盤、彼は自ら作り上げた歩行する戦車のような兵器「ムース」を操縦し、機械と人間の垣根を越えてしまう。意識と感覚をムースと同期して遠隔操作する兵器を操る彼は、「兵器は人間が操作するべき」という信念を持ちながら、その信念ゆえに機械と人間の壁を越える。そしてその象徴というべきシーンが、日本での公開ではカットされてしまったアメリカの胴体がハサミで引きちぎられるシーンだったんだろう。それ以降彼は機械のようにチンピラを殺戮する。(余談になるけど、ムーアが人でなくなる決心をつけ、またアメリカという映画の主要登場人物の最大の見せ場を問答無用で切って捨てたソニーピクチャーズの姿勢にはやっぱりちょっと疑問がある。色々と事情があるのは承知の上だし、発表しなかったら誰も騒がなかったのでは、とは思うけども)

 そして映画の終盤、機械でありながら意識を持った存在であるチャッピ―は、人間でありながら機械となった男であるムーアと対峙する。チャッピーを作り上げたウィルソンが繰り返し植え付けようとした「創造性」が、ナイフに手榴弾をテープで括りつけて新しい武器を作る、という最も悲惨な形で結実しながら、である。ここには2人の越境者同士の対立構造が存在している。機械でありながら意識を持った存在と、人間でありながら機械になった存在。この戦闘で、チャッピーは機械と同化したムーアに対して、自らの意思で猛然と暴力を振るう。これまでのブロムカンプ作品に見られなかった、越境した者同士の死闘がここで描かれたわけだ。ただの悪役にしか見えないムーアに見え隠れした信念と、チャッピーが通そうとした仁義の激突。猛烈にエモーショナルな戦闘シーン(とにかく、自ら禁じていた銃の所持の禁を破ってグレネードランチャーを手に取り振り向くチャッピーのエモさはすごかった)だったとおれは思う。

 

 で、この映画にはまた別の越境者がいる。終盤に意識をロボットに植え付けられるウィルソンと、ヨーランディである。チャッピーにとっては造物主である存在と母である存在を、彼は自らの意思で死の淵から救い出す。思えばこれまでのブロムカンプ映画では、自らを越境させる主人公はいても他者を越境させる能力を持った主人公はいなかった。これだけでも『チャッピー』はいつものブロムカンプ映画ではないな、と思う。そして土壇場でチャッピーは自らにとって神であり母であるこの2人を無理矢理越境させることに成功する。これはこれまでのブロムカンプの映画にはなかった展開だ。大げさに言えばチャッピーは神にも等しい所行を成し遂げたのであり、そしてその事自体の是非はこの映画では特に言及されていない、ように思う。「こういうふうにしかならなかったんだよね……この人たちは……」と半ば投げ出すようにして観客の前に結末が投げ出されている。おれにもこの結末をどう飲み込んだらいいのか、実はまだあまり見当がついていない。「こういうふうにしかならなかったんだから、仕方ないよなあ……」くらいしか言葉が見つからないのがもどかしい。が、『チャッピー』はそういう映画だったんである。

 今書いたあたりの劇中のギミックがSF的にはかなりガバガバだったので、これを飲み込めるか否かがこの映画の評価のキモになるのは間違いない。おれはむりやり飲み込んだが、正直ちょっと胃もたれがしている。あれだけのガバガバギミックなので、飲み込めないなら飲み込まないほうがいいと思う。体を悪くする。

 

 ブロムカンプという監督は、同じようなテーマを同じような道具立てで扱っているようで、実のところちょっとずつ語り口や結論を変更してきている。特にこの『チャッピー』は越境せざるを得なかった者、越境させられた者、自ら望んで越境した者が入り乱れ、善悪が容易に入れ替わり、同じような道具立てで同じことを言っているようで、今までになく複雑な話を語ろうとしているようにおれには感じられた。どう総括していいのかなんだかよくわからない。でも、だからこそ、「え〜これって『第9地区』と同じじゃん!」といって切って捨ててしまうのはちょっともったいない気がしている。