Everything's Gone Green

感想などです

岡崎体育は許しがたいし、EXILEのPVは全然ありがちではない

 ここ数日、おれは岡崎体育について腹を立て続けている。きっかけは石野卓球のツイートで、特に名前は出さないまでも若手ミュージシャンについて苦言を呈している発言だった。「自己紹介でわざわざおれの名前を出すな、風評被害である」という発言で最初は誰の事だかわからなかったんだけど、2分ほどネットをうろついていたら「岡崎体育」というミュージシャンのことを指した発言だとわかった。

 

 どうやら岡崎体育という人は電気グルーヴのファンで、「卓球」を超えるべく、より包括的な概念である「体育」という名前を名乗っているという。その時点でおれは「えっダサい」とちょっと思ったのだが、今思えばそこでやめておけばよかった。勢いでつい、岡崎体育を検索してしまったのである。

 画像検索で目にした岡崎体育の見た目はおれのあまり好きではない人相であった。あまりにもスクールカースト下から二番目の人間が大学デビューでイキった感じそのまんまであった。キョロ充的でありすぎ、面白いことを言わなそうな感じでありすぎた。しかし、世間ではウケているという。邦楽のPVにありがちなことをまとめた映像が面白いという。きゃりーぱみゅぱみゅも褒めているという。おれも中田ヤスタカPerfumeは正直好きだ。食わず嫌いはよくない。おれは岡崎体育の「MUSIC VIDEO」を再生した。

 


岡崎体育 「MUSIC VIDEO」Music Video

 

 以下はそれを見てからの感想である。

 

 まず第一に、本当にこの人は電気が好きで、芸名にするほどの影響を受けているのか、と思った。ウソでしょこれは。

 おれも中学生の時に聞いた「ドリルキングアンソロジー」に衝撃を受け、その後同級生で映画好きサブカル男子のオクムラくんと一緒に教室のラジカセで電気のCDを並んで聞いていた(そして途中でヤンキーによく邪魔をされた)人間である。しかもおれは1987年生まれで岡崎体育は1989年生まれ。ぶっちゃけこの年代は電気のオールナイトニッポンとかには全然間に合っておらず、小学生のころにポンキッキーズ鈴木蘭々ピエール瀧を見るのが関の山だったはずだ。そういう、ド正面から電気の最盛期を見られなかったであろう同じ年代の人間として言わせてもらうが、岡崎体育の「MUSIC VIDEO」のどこに電気の影響があるのかさっぱりわからなかった。

 

 電気グルーヴの凄みは楽曲のクオリティとクソみたいな悪ふざけの両立にある。トラックはあくまでかっこよく、歌詞はえも言われぬ韻を踏んでおり、ねっちょりした卓球の歌声は耳に残り、そしてPVやアートワークやツアータイトルは死ぬほどくだらない。電気はひどい悪ふざけだけのバンド(あえてバンドと呼ぶ)ではなく、格好をつけるところと死ぬほど悪ふざけをするところの緩急を最大限につけることで格好を付けるバンドなのだ。かっこいいところがちゃんとかっこいいからこそ、ドン引きするような悪ふざけが一層光り輝くのである。「下痢便発電所異常なし '83」なんて最悪のツアータイトルをつけてもツアーが成立するのは、その時点で最新のテクノの文法に則った分厚いトラックが聞けるからこそなのだ。

 

 しかし、岡崎体育の「MUSIC VIDEO」に関して言えば、そういった美学は全く感じられなかった。とにかくノリが寒い。「最近の邦楽のPVにありがちなことwwwwww」的な、クソまとめサイトのクソエントリっぽいノリのそのままの内容を、そのまま視聴者に消費させるだけでなんの深みも面白みもない。そしてなにより「お前は電気から何を学んだんだよ!」と言いたくなるのが「歌詞でもPVでもふざけている」という点である。

 電気のPVやトラックで重要なのは、悪ふざけをするのは全体の2/3あたりまでであるという点だ。かっこいい曲には全然関係のないクソみたいな(しかし手間は異常にかかっている)映像を添えるなど、外すのはどこか片側だけであり、もう片方でキッチリ締めるべきポイントは締めていた。しかし岡崎体育の「MUSIC VIDEO」では最近の邦楽にありがちなことを揶揄した歌詞をそのまんまの映像にしてそのまんま同じタイミングで被せており、正直いって「お前どんだけそのまんまなんだよ!」という他ない。あのつまらなそうな人相の岡崎体育に全力で「オモロいやろ!」と言われても、少なくともおれは「全力だなあ」としか思わなかった。楽曲もPVも結局どちらもわかりやすくも中途半端であり、端的に言ってダサい。

 

 そして、「最近の邦楽のPV」には本当にこの岡崎体育の「MUSIC VIDEO」で言われているようなことが起きているのであろうか。確かにマンネリ気味の演出はあるのかもしれない。だがしかし、そういう映像だけでもないはずだ、と思う。

 

 例えば、恐らく現在の邦楽のど真ん中であろうEXILEである。実のところ貧乏所帯ばかりの日本の映像業界において、EXILEは最も金をジャブジャブ突っ込んで派手な映像を製作できる集団のひとつになっており、彼らのPVは楽曲と映像の内容が全く関係ないにも関わらず「金がジャブジャブぶち込まれている」という一点だけでおれの目を引きつけてやまない(おれは金がかかった映像をボンヤリ見るのが大好きなのだ)。この現在において邦楽の代表格であるはずのEXILEのPVはすでに岡崎体育の言う「邦楽のPVにありがちなこと」の枠から大きくはみ出しているではないか!岡崎体育EXILEに土下座しろ!!とおれは思う。

 

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 例えばこのEXILEミーツ西部警察のゴキゲンすぎる一作。ゴージャスかつトリガーハッピーなエグザイルポリスの有無を言わせない説得力。ありがちな「ラブソングのPV」の枠を銃弾の嵐で破壊した怪作である。

 

 

 

 

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 日本版マッドマックスフューリーロードとも言える、おれの大好きな作品がこちら。荒廃した世界に'80年代風の肩パットをつけたEXILEが降臨すればガキも老人も皆ハッピー。しかもこの衣装でChoo Choo TRAINのあのグルグル回る振り付けもちゃんとやってくれる。文句のつけようがないではないか。ちなみにこのPVはフルバージョンがマジで最高なので是非なんとかしてどこかで見てみてほしい。

 

 

 

 

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 こちらはクーデターが起こせるのではないかというほどの人数を集めた群舞が底抜けに能天気な一本。「とりあえずこれだけEXILE感のある老若男女を集めてみました!!」というだけの映像はまるでインド映画とよさこい悪魔合体。本当にそれ以上の意味がほとんど無いところが大変に潔い。

 

 

 

 

 以上、おれが面白いと思っているEXILEのPVをとりあえず3つ並べてみた。雑な反証ではあるが岡崎体育の言ってる事はしょっぱくてEXILEはすごい、ということがおわかりいただけただろうか。制作費がどうのこうのという点ももちろんあるだろうが、現在の邦楽において間違いなくトップクラスに稼いでいるであろうEXILEがこれだけ変な映像を垂れ流している以上、「邦楽のPVでありがちなことwwwwwww」みたいなネタでゲラゲラ笑うのがどれだけ下劣でものを知らない行為か、想像していただきたい。そういう、まるで調子に乗った世間知らずの大学2年生みたいなバイブスを感じさせ、増幅させる安直で考えの足りない岡崎体育が、やはりおれは大嫌いなのである。

最も豪華な後出しジャンケン 『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』

 いきなりステーキというステーキ屋をご存知だろうか。

 

 その名の通り、立ち食いでいきなりステーキが出てきて、ガツガツ食ってさっと出る、というような、とにかくいきなり肉が食いたくなってしまった人がピットインする感じのステーキ屋である。本当にいきなりステーキが出てきたので初めて行った時にはビックリしたけど、これはこれで楽しかったのでおれはたまに行く。

 映画『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(以下『BvS』)はこのいきなりステーキのような映画だった。美味そうなんだけど、ものすごく分厚くてどこから食っていいのかよくわからない肉の塊が鉄板の上に乗っかって音を立てていて、それをいきなり「ほらステーキが食いたかったんだろ。食えよ。食えるだろ?」と突き出されているような、そんな映画である。

 


[ULTRA HD 4K] BATMAN V SUPERMAN Final + Doomsday TRAILER

 

 スーパーヒーロー系のコミック出版社としては超がつく老舗のDCコミックスだが、モダンなスーパーヒーロー映画のストリームを生み出す手腕に関してはライバルのマーベルの方が一歩先を行っていた感がある。クリストファー・リーブのスーパーマンティム・バートンバットマンもあったけど、マーベルが打ち出した「複数タイトルのスーパーヒーロー映画が複雑に絡み合い、数年に一度それらヒーローが大集合する映画もまた別途作る」というMCUマーベル・シネマティック・ユニバース)映画のスタイルはまさにオタク長年の夢のような形式だった。膨大な予算と時間をかけて、マーベルはアヴェンジャーズを中心にしたスーパーヒーローたちの巨大なクロニクルを映画で作り挙げようとしている。それは要するに、アメリカンコミックの持つ構造をそのまま映画各タイトルで組み立て直す試みだったと思う。思えばブライアン・シンガーの『X-メン』から15年あまり、マーベルの試行錯誤は今大きく実ったのである。おめでとうマーベルコミックス

 

 対して同時期にDCの打ち出した映画は、個人的には特に嬉しくなかった。ノーランがあんまり好きじゃない(だってアクション撮るの壊滅的に下手だし、アイツ撮影現場にスーツ着てくるんでしょ……なんて嫌味な奴なんだ……)というのもあったんだけど、やたらとテーマが重く画面が暗くバットマンの声が聞き取りにくく妙に鬱々としたバットマン映画3本を見せられて「いや〜、これを大人向けって言っちゃうセンスって20年ちょっと前に死んだんじゃないの……?」と思っていた。『ダークナイト』もそりゃ面白かったけど、正直「持ち上げすぎじゃね?」とも思っていたのである。フィギュアやオモチャもあんまり魅力的なものが出なかったし。関係ないが昔から割とDCはオモチャに弱いところがあると思う。

 

 しかし『マン・オブ・スティール』はドラゴンボールみたいな戦闘シーンや、ことあるごとに出てくるラッセル・クロウが思いの外面白かった(ちょっとクラーク・ケントが悩みすぎでは……とは思った)ので、「バットマンがあの新スーパーマンと戦うのか〜〜勝ち目ないでしょ〜〜」という感じでおれはうすらボンヤリと『BvS』を楽しみにしていたのである。

 

 で、『BvS』である。結論から言えば想像していたよりも面白かった。個々のヒーローに対する解釈はまあいい。特にバットマンはこの解釈だと揉めそうだな〜〜と思って見ていたけど、まあこれもいいだろう。おれが驚いたのは、とにかくこの映画がガンガン説明を省いていくスタイルだった点だ。

 アメコミ映画で問題になるのが「なにをどこまで説明するか」である。バットマンが昼は大企業のトップであるブルース・ウェインで、子供の頃にチンピラヤクザに目の前で両親を殺されて犯罪への復讐を誓い、ケイブの奥で無数のコウモリとなんやかんやあって冷酷無比なクライムファイターになった、というのはアメコミを読む人間ならまあ皆大体知っている。しかしアメコミ映画を見る人間はアメコミオタクだけではない。特に日本ではそうだろう。そこで浮上するのが「知っている人間には常識だが知らない人間には全然わからないディテールをどうやって解説するか」という問題なわけである。バットマンが映画になるたびに可愛そうなウェイン夫妻は惨殺されなくてはならないし、理系のオタク少年だったピーター・パーカーは毎回すごい蜘蛛に噛まれなくてはならないのだ。

 

 で、今回の『BvS』がその問題にどう対処したかというと、それらを大体全部省いたのである。バットマンのオリジンは冒頭、タイトルが出るまでの間にざ〜っと簡単に説明されたものの、それ以外のヒーロー(それ以外の連中がまたけっこうゴロゴロ出てくるのだが)はどこの誰なのか全く説明がないままに「すでにそこにいた」という形で放り出され、ワンダーウーマンがなぜ投げ縄を投げたのかは愚か、彼女は一体何者なのかということすら"なんとなくこの人は善玉なんだろうな……"とわかる程度にしか説明されない。同様に悪役レックス・ルーサーが策略を用いてスーパーマンをつけ狙う理由も放りっぱなし。強いて言うなら「コイツはレックス・ルーサーだからスーパーマンを狙ってるのかな……」という程度しかわからない。「お前らどうせこれくらいわかってんだろ!次行くぞ次!ついてこれる奴はついてこい!!」とばかりに怒濤のハイカロリーバトルが次々と観客席に流し込まれ、気がついたらジャスティスが誕生していたのである。

 

 思えばMCU作品はなんと親切だったのだろうか。洗練されたストーリーテリングのおかげですでに知っているスーパーヒーローたちのオリジンも素直に楽しく見られたし、ちゃんと順序を追って話を盛り上げ、着地してほしいタイミングでストーリーが着地した。しかし今度こそシリーズ化されるであろうDCコミックス映画は違う。観客を引きずり回し、ふるいにかけ、やりたい放題の大暴れである。しかし赤いマントをはためかせながら降臨するスーパーマンや、逆光の中に窓をぶち破って登場するバットマンの絵面は圧倒的に神々しく、まさに「えっそこ飛ばすの!?」「あっでもかっこいい……」という神話的ダイナミズムに満ちている。まさにいきなりステーキ、それもクソデカい肉の塊がそのままゴロリと登場した感じである。確かにステーキはうまい。うまいんだけど、いきなりすぎて半分くらい味がわからない。

 

 DCからすれば、後出しでマーベルと全く同じアプローチをとることができないのは当然だろう。なんせ連作のスーパーヒーロー映画という形のビジネスではマーベルの方が何歩もリードしている。向こうが「スーパーヒーローの映画」として真っ当なものを出しているなら、こちらは「映画媒体でアメコミの構造自体の再現を試みる」という手法で行こう、と思ったかどうかは知らないが、できあがった映画はまさにアメコミ独特のあの不親切さ(コミックでは一々各ヒーローのオリジンなんか説明してくれない)と神々しさが同居した巨大な肉塊だったのである。ある程度構造ができあがっている現時点からDC映画のこの構造をMCUが逆に真似することは不可能だ。滅茶苦茶ダイナミックな後出しジャンケンではないか!

 

 というわけで、とりあえずジャスティスは誕生した。続きはどうなるのかわかったようなわからないような感じだが、個人的にはこれまでのDCコミックス系映画に比べて圧倒的に今後が楽しみである。あとは出来のいいオモチャがドンドン発売されるように願うだけ。おれは今心の底から「頼むからDCもこの映画版のコスチュームでマトモな3.75インチフィギュアを発売してほしい」と思っている。

彩の国ビジュアルプラザはアラサーの映画おたくの楽園だった

 埼玉県は西川口にある彩の国ビジュアルプラザ(以下ビジュアルプラザ)で開催されている「あそぶ! ゲーム展 ステージ1」。この展示も想像以上によかったんだけど、ビジュアルプラザ自体が非常に面白い施設だったので適当にまとめておきたい。昨日行ってきたとこで記憶もフレッシュですし……。写真が多いので適当に読み飛ばしてほしい。ちなみに写真は全部iPhoneで撮ったのでガタガタである。

 

 ビジュアルプラザ、最寄り駅は西川口駅である。

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 公式WEBサイトに掲載されている地図だとこんな感じなので駅からそれほど離れていないように見えるがさにあらず。これがけっこう距離がある。車で10分くらいかかりそうな雰囲気。だがおれは車なんか持っていないので雨の中を淡々と歩いたのだった。

 

 

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 道中に貼ってあった標語。うむ。

 

 

 

 

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 30分ほどダラダラ歩いてようやく到着したビジュアルプラザ。思っていたより建物がでかくてビックリする。展示への入場料は大人510円。最初に買うチケット1枚で特別展示も常設展示も見られる。映像制作に関する展示/資料館兼、使用料を払うと使える撮影/編集設備が組み合わさった建物で、常設展示も映画に関するフロアとテレビに関するフロアに分かれている。ここで「あそぶ! ゲーム展」もやっているわけだ。

 

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 チケットを買って展示室に入るとスクリーンが張ってあってその脇に映画用の道具などが置いてあり、そこで平成ガメラ撮影当時の金子監督(若い)とかが映像制作の面白さとかを語る映像が流しっぱなしになっているのだが、その脇置いてある大道具とかがこれ。なんのメッセージなんだ……。

 

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 映画に関する展示フロアでは昔の撮影用器材とかが置いてあり、映画撮影技術の発達史、そして企画を立てて脚本やストーリーボードを用意して撮影して編集して……という映画製作のプロセスをわかりやすく学べる。基本的に子供向けなので誰が見てもわかるように解説されており、普通の映画オタクのおっさんが見ても「へ〜」となるような展示が多かった。が、まあ、それはいい。この施設のすごいところはそこではないのだ。

 

 

 

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 映画を撮る前には設定考えたり脚本書いたりストーリーボードを作ります、というのを解説するために置いてあるのが1992年版『ゴジラVSモスラ』の脚本と設定書。いきなり現物である。マジかよ。これ、おれが幼稚園の年長の時の映画である。いや〜、見た見た! バトラとかテレマガやらで何度も見たわ! 映画には連れてってもらえなかったけど! おれは怪獣映画ではガメラ派なのだが、余りにも世代的にドンピシャのタイトルがいきなりエントリーしてきたので思わず声が出てしまった。

 

 

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 その『ゴジラVSモスラ』の対面にいきなり貼ってあるのが『トラトラトラ!』の絵コンテ。オタク大喜びである。

 

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『トラトラトラ!』に関しては途中で降板した黒澤明が描いた自筆の絵コンテも展示されている。さすが黒澤明、おっさんの顔の絵がうまい。それにしても「TOKYO PRINCE HOTEL」とある便せんっぽい紙に描かれているのが生々しい。ホテルに缶詰で描いたのだろうか……。

 

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 映画には小道具も必要ですよ〜というのを解説しているコーナー。これ、よく見ると……

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 ジュマンジじゃねーか! 埼玉に流れ着いてたのかよ!! あまりにもビックリしたのでこの画像だけはツイッターにアップしてしまった。

 

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メン・イン・ブラック』でJとかKとかが使ってた銃。なんで現物がこんなところにあるんだろう……。ちゃんとJが使ってた「めっちゃちっちゃいけどクソ威力があった銃」が置いてあるのが泣ける。

 

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対面の展示が映り込んじゃっててなにがなんだかわからないが、これは『メン・イン・ブラック』でJとKが着ていたスーツ。本当になんで埼玉にあるんだ……

 

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ゴジラアニマトロニクス部分。これがスーツアクターの頭の上に乗っかってるそう。おれはゴジラおたくではないのでこれが何代めのゴジラの頭の中身なのかわからない……。あとアゴからなんか赤い汁が出ちゃってるのが怖い。

 

 

 

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 そしておれが最も度肝を抜かれたのがVFXの解説コーナー。いわゆるモーションコントロールカメラを使った特撮のやり方とかを解説しているんだけど……。

 

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 いきなりドーーーン!と立っているのが超名作『スターシップトゥルーパーズ』の機動歩兵の装備一式を展示したマネキン! なんで!? お前モーションコントロールカメラとか関係ないじゃん! 嬉しいけども! あとなんか手に持ってるモリタライフルがぐにゃぐにゃしてるけど大丈夫!? ちなみに右下に映り込んじゃってるのはこのマネキンの手前に置いてあるベンチみたいなとこに座っているおじさんの右肩です。このおじさん、なかなかどいてくれなかったんだよね……。

 

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 展示物に触ると怒られるけど、触らなければ寄り放題の写真撮り放題(ビジュアルプラザは個人で使用するなら展示物の写真を好きに撮っていいとのこと。太っ腹である)。なんたって周りは親子連ればっかりで、機動歩兵なんか誰も興味がないので延々粘っても全然平気。装備品は細部の作りがなんだかペナペナしてチープで、逆にそれが「これ本物のプロップなんだろうな……」という感じだ。モリタライフルがぐにゃぐにゃなのも、デフォルトでそうだったのだろう、きっと。

 

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 そしてその横にはモーションコントロールカメラで撮影するのに使ったという宇宙戦艦ヤマモト号の巨大なプロップが! これほんとでかくて、全長は3m近いサイズ。何度も言うけどなんでこんなもんが埼玉にあるんだよ……。

 

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 展示物の脇にちっちゃいパネルを置いてわざわざ「これは"あの"ロジャーヤングの姉妹艦だぞ!」と教えてくれるあたりが完全におたくの仕事。ロジャーヤングとかいきなり言われてなんのことかわかる人はまあ大体おたくである。アンタも好きねえという感じ。

 

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 もちろんヤマモト号も写真撮り放題。ありがてぇ……。間近で見ると本当に塗りとかディテールの作り込みが雑でマジメに模型作るのがアホくさくなる。

 

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 脇のテレビとかでこのプロップをどう使って実際の映像を作っているのかを解説しているんだけど、これが完全にただの『スターシップトゥルーパーズ』のメイキング。オタク大喜びである。というか小学生以下のキッズたちもわんさか来てる施設なんだけど『スターシップトゥルーパーズ』なんかをネタにして川口市にクレームとか来てないんだろうか。なんだか勝手に心配になってしまう。頑張ってほしい。

 

 というわけで余りにも意外な展示物が多すぎて目当ての「あそぶ! ゲーム展」にたどり着くまでに記事が長くなりすぎたので、エントリを分けることにする。とにかく今アラサーの映画おたくなら行って損はない施設。駅からはちょっと距離があるが、はるばる歩くだけの価値はある。しかしこれだけの資料、本当にどこから集めてきたのだろうか……。ものすごく気になっている。

なぜ、EP7からスターウォーズを見た人には、ストームトルーパー"だけ"がダサく見えたのか?

 まずこのエントリの前提として、以下の青柳さんのエントリを読んでおいていただきたい。

 

ao8l22.hatenablog.com

 

 この青柳さんのエントリの途中で話題に上がっている「ていうか、ストームトルーパーのデザイン、ダサくないですか?」という疑問について、読んだ後にけっこう考えこんでしまった。この飲み会でペラペラ喋っているスターウォーズおたくBは何を隠そうおれなので知っているのだが、EP7からスターウォーズを見た2名は飲み会の現場ではXウイングやTIEファイターやファルコン号にはそこまで「ダサい」と言わなかったからである。ほぼ1977年のデザインそのままだったビークル類はよくて、けっこう各部にアレンジが施されていたストームトルーパーはダサく見えたのは何故なのか。

 

 まず大前提として、スターウォーズEP7のアートワークはEP4〜6を下敷きにしているのは映画を見た人ならばわかると思う。EP1〜3と異なり、EP7はEP4〜6の後の世界を元にしている。だからメカや登場人物の服装やガジェットがその影響下にあるのは当たり前と言えば当たり前。しかも、EP7ではレイの服装がルークの初期スケッチを元にしていたり(初期段階ではルークはルーク・"スターキラー"という名前で、しかも女性になる予定だった)、レジスタンスの使うXウイングも主翼を閉じた時に上下のインテーク部分が円形になるラルフ・マクウォーリーの初期デザインを引用していたりと、オタク向けの目配せにも隙が無い。それらはEP4〜6を経た上でのデザインワークとしてかなり精度の高いものだったといえるだろう。これに関してはこのブログで以前にも書いた。

 

 これらのアートワークの中でも、ビークル類の重要度は高い。そもそもスターウォーズは世界的にも「メカをデザインする」ということの意義を大きく塗り替え、その作業のウェイトを見直させた作品だと思う。

 

 スターウォーズのメカデザインはひとつの発明と言ってもいい。以前から言われているように、ツルツルピカピカした宇宙船が主流だった頃に、汚れてボロボロになったメカを大量に登場させたのは大変にエポックメイキングなことだった。しかも、そもそものメカ自体の形状も強烈だ。細長い胴体の後方に前進翼っぽい形状の主翼を4つ取り付け、その主翼が開いたり閉じたりする、円盤状の胴体の前方に三角形が2個くっついてて操縦席が脇にくっついている、といったビークルたちの形状はやはり現在の眼で見ても斬新で、どうやってこんな形のものを思いついたのか、はなはだ不思議である。例えば遠い昔にデザインされたフォルクスワーゲンのビートルを今我々が見ても「あれはビートルだな」と認識し、ともすれば「かっこいい」と感じることもあるように、スターウォーズビークル類はそのフォルムの独特さから登場した瞬間にパーマネントなデザインになってしまったのだ。

 

 翻ってストームトルーパーである。「純白の装甲服に身を包んだエリート部隊」という設定は確かに1977年の時点では強烈にSFっぽかったのだと思う。マスクの人相もなんだか悪そうだし、ぱっと見ペラペラの装甲でも、ツヤツヤした表面に照り返すライトパネルの輝きはかっこいい(と思う……)。そしてそもそも、1977年には「歩兵がフルフェイスのヘルメットや防弾装備を身につけて戦う」というのが一般的ではなかったのも、ストームトルーパーの未来っぽさにつながっていたのだろう。今回の青柳さんのエントリにもあった「なんでカイロ・レンは防弾チョッキとか着てなかったの?」という疑問にもつながるけど、スターウォーズは元々兵隊があんまり防弾チョッキとかを着用していなかった時期の映画なのだ。

 

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↑これは1973年ごろ、当時の新型装備であるALICE系列の装備品を身につけたアメリカ兵である。スターウォーズ公開4年前の装備なので、まあほぼ同年代ということでいいと思う。この写真をじ〜っと見た後に下のストームトルーパーを見ていただきたい。

 

 

 

 

 

 

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 どうだろうか。「み、未来〜〜〜〜!」って感じがしないだろうか。しなかったら申し訳ないが、このいかにも呼吸装置が収まっていそうなマスクといい、歩兵と言えば大抵ド緑色の服を着ているのに装備があえて純白一色な点といい、「げっ!これが帝国軍の兵隊なのか!」というインパクトがある気はする。

 

 

 

 

 しかし、その後歩兵の装備は大きく様変わりしてしまい、兵士は年々重装備化。ボディアーマーや凝ったヘルメットをつけて戦うのは一般的になった。

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↑『ゼロ・ダーク・サーティ』のDEVGRU。この装備が実際にビンラディン暗殺に使われたかどうかは諸説あるが、ひとまず整合性がある装備なのは間違いない。上のストームトルーパーと見比べると、現代の眼では「こっちのほうがSFっぽくてかっこいい……」というふうに見えるのではなかろうか。

 

 つまるところ、ストームトルーパーのデザインは「人が着用して戦うもの」であったがゆえにパーマネントなものになれず、「ストームトルーパーとは何か」というお約束を共有していない人間にとっては単に古くさくてダサいものになってしまったのである。宇宙を飛び回る飛行機は現実に存在しないので非常に長持ちする存在感と説得力を手に入れることとなったが、歩兵はそもそも実在する存在であり、そして1977年から2016年の間に現実がストームトルーパーのデザインを追い抜いていったのである。

 

 ファーストオーダーストームトルーパーのデザインをする上で、制作陣は相当迷ったと思う。現代的なデザインにすればストームトルーパーのニュアンスを取りこぼすが、さりとてEP6以降の物語を描く上で白い装甲服を着た敵の大集団は絶対に外せない。どちらを取るかという局面で、制作陣は「やっぱストームトルーパーがいないとスターウォーズじゃねえよな!」という結論に至ったのだろう。なのでEP7のスタッフは旧ストームトルーパーのデザインをブラッシュアップして線数を減らし、さらにアップル製品のようなツルリとした表面とシンプルさを与えた。さらにチェストリグを着用し予備マガジンを詰めた兵士を登場させ、帝国軍のブラスターにM4系のクレーンストックっぽいストックを取り付けることで「一応、現在こういう感じのタクティカルな装備があるのは知ってるんだよ」という目配せすら見せた。個人的には英断だったと思う。

 

 というわけで、そもそも実在しないものをいきなりデザインしたビークルのメカデザインと、実在する人間に着せる衣装、それも歩兵用装備などという変化の激しいものをネタにしたストームトルーパーのデザインとでは、同じスターウォーズのアートワークでも劣化の速度が大きく異なったのではないかというのがおれの結論だ。別に軍事オタクじゃなくたって、現代の兵隊の写真や映像はニュースなんかで見るだろうし、それと比べた観客が「ダセぇ!」と思うことは止められない。それでもEP7の製作チームは「あのストームトルーパーのデザインラインに乗っかる」ことを決めたのである。つまるところ、EP7はそういう映画だったのだ。

 

 この理屈で言うと、スターウォーズビークルのデザインが古びることがあるとすれば、それは人類がハイパードライブを発明し実際にスターウォーズのように自由に宇宙を移動する頃だろう。そんな遠い未来でスターウォーズを初めて見た人達も、ビールを飲みながら「なんかワープ中の演出が現実と全然違うし、なによりダサくないですか!?」と議論を交わしたりするのかもしれないと思うと、ちょっと楽しい気分になるのだった。

でもいいの?ホントにそれで。『ヤクザと憲法』

 ヤクザは社会のダニであり、反社会的集団であり、望んで犯罪者になった連中の集団なので容赦はいらない。奴らに人権なんかない。ヤクザにならない自由だってあるのに、すすんでヤクザになった人間なのだから、全てのリスクは本人が負うべきだ。

 

 もっともだ、と思う。しかし、その一見もっともな意見に対し「ホントに?」と切り込んでいくドキュメンタリー映画が『ヤクザと憲法』である。なぜ憲法か、と言えば、はっきり言って現在のヤクザは憲法14条に規定された法の下の平等埒外に置かれているからだ。

 

 本物のヤクザである大阪の指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」の事務所に東海テレビのスタッフが入り込み、長期間の取材を経て完成したこの映画には、現在のヤクザの生々しい生活がそのまま映っている。夏場には事務所のテレビで高校野球を観戦し、「ヤクザも高校野球見るんだ……」と思った次の場面では試合を見ながらなにやら札束を封筒に小分けにしているヤクザのおっさんが映る。彼は「何をしているんですか?」というスタッフの質問に対し「野球や。高校野球」と短く答える。高校野球に関する小分けにされた札束……。意味深すぎる。

 

 また、飯を食っているヤクザの携帯が突然鳴り出し、短い会話の後にどこかの住宅地へ車で入っていくシーンもどぎつい。住宅の入り口で「なにか」を手渡し、「なにか」を受け取って車へ戻ってくるヤクザに対し、取材陣は「覚醒剤ですか?」とノーガードの質問をぶち込む。「まあそう思うんならそうなんじゃないですか……」という感じで言葉を濁しつつ車を運転するヤクザ。我々が想像する「ヤクザのシノギ」にかなり近いシーン。このあたりは「ヤクザの実態を追ったドキュメンタリー」に期待されるような見世物小屋的な要素を満たしていると思う。

 

 しかし、事務所で部屋住みの若い衆が寝泊まりしている部屋に置かれているのはなにやらかわいらしい動物(犬とかネコとかだ)の写真集。一見ヤクザの事務所には似つかわしくない本だが、聞けば服役中は大変つらいのでこういったかわいい動物の写真を見て癒やされるのだという。また、前述の「高校野球に関する現金が入った封筒」を放り込んでおく袋はサーティーワンのビニール袋だ。ヤクザだってつらいときは動物の写真集に癒やされるし、サーティーワンでアイスを買って食ったりするのである。

 

 このように取材陣はヤクザの事務所でカメラを回し続け、ヤクザたちの妙に人間的な瞬間を捉える。ヤクザと言っても大半は40〜60代のおっさんばかりであり、ヒマそうに事務所でお茶を飲みながら世間話をする姿は近所の気の良いおっさんといった感じである(小指がなかったりするが)。年の瀬には紅白歌合戦を見るし、普通の人間に混じって外で飯を食ったりするのである。しかし、時には下手を打った若い衆をシバき倒し(余談だがこのシーンでは部屋の中にカメラは入れてもらえない。声だけでも充分怖かった)、ヤクザには欠かせない義理ごとに赴くときはビシッとしたスーツに着替えたりする。

 

 現在の彼らは暴対法によって非常に理不尽な目にもあう。保険に入れず銀行口座も作れず、口座から引き落とせない給食費を現金で学校に持っていくから子供の親がヤクザというのが一発でバレる。とにかくやることなすこと全て制限されており、画面からもヤクザらしい羽振りの良さはまったく見られない。交通事故のために保険を適用しようとしたヤクザが逮捕され、大阪府警のマル暴が事務所に乗り込んでくるシーンは本作の白眉だ。どちらがヤクザだかわからないくらいの恫喝が取材陣にも及び、思わず見ていて首をすくめるほどのスリルである。ことほどかように、ヤクザは今弱っているのだ。

 

 

 ヤクザを弁護する弁護士だって無関係ではいられない。山口組の顧問弁護士は山口組の顧問弁護士であるというだけで弁護士資格を剥奪され、廃業に追い込まれる。『ヤクザと憲法』の後に公開された『ブリッジ・オブ・スパイ』では冷戦期のアメリカでソ連のスパイ(ヤクザどころではない激ヤバ弁護対称である)を弁護することになってしまったトム・ハンクスが主役だったが、あの映画ではアメリカ国民にとって唯一にして最大の規範である合衆国憲法に基づき、あくまで人間としてソ連のスパイを弁護する弁護士がヒーローとして描かれた。現在の日本で起きているのは1960年代のアメリカよりも後退した事態ではなかろうか。

 

 

 この映画で強烈だったのは「ヤクザも人間」という、当たり前の事実だった。おれは大学の時に『仁義なき戦い』を見てからヤクザ映画の面白さにシビれ、ヤクザ史を読みあさるうちに(面白いんですよこれがまた……)彼らをフィクションとして消費することに慣れきっていた。思えばヤクザはニンジャもサムライもいない現代の日本に残された、最後のファンタジーのひとつである。それが証拠にハリウッド映画でウルヴァリンプレデターと渡り合う日本人は皆ヤクザだ。それらを面白がっているうちに、彼らはスパイダーマンやエイリアンと同じ枠に収まってしまっていた。それは「自分とは次元の違う存在」という枠に押し込めることで無関係の存在と見なす、一種の思考停止だったのではないか。

 

 しかし、当然ながら彼らは人間である。ネコの写真集も見るしサーティーワンにも行くのだ。そして現在の法体系の下では彼らが満足に人間らしい生活ができるかと言えばそうではない。

 

 この映画に登場する若い部屋住みのヤクザは、元は引きこもりだったのがドロップアウトしてヤクザになったのだという。大晦日に事務所で紅白歌合戦を見ながら老ヤクザに諭されていた彼は結局ヤクザを辞め、食うに困ってコンビニ強盗をやって捕まっていたそうだ。

 

 

  あの部屋住み君、不器用そうだったもんな……。と思う反面「ヤクザがセーフティーネットになってる社会ってどうなんすかね」とも思う。この「どうなんすかね」という感じは取材陣による「ヤクザを辞めたらいいのでは」という質問に対する清勇会の川口会長による「どこで受け入れてくれる?」というヘビーすぎる逆質問へと行き着く。おれにはこの質問に対する回答は用意できない。

 

 ヤクザは社会悪であり屑である、と断罪するのは簡単だし単純だ。そしてこの映画はその単純さに対し「でもいいの?ホントにそれで」と鋭すぎる問いを突きつける、極めてシャープな作品だった。

そしてストーリーは続く 『ストレイト・アウタ・コンプトン』

 ちょっと遅くなったが映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』の感想である。

 

 本作はヒップホップの歴史にその名を残すギャングスタラップのオリジネイター、N.W.Aの伝記映画である。時は1986年、全米への麻薬流入が大問題になっていた時期で、その流通ルートの末端に位置するゲットー住まいの貧乏黒人たちは度重なる警官からの暴行に晒され、道に突っ立ってるだけでボコボコにされることもしばしば。そんな中、全米最悪の治安を誇るロサンゼルス近郊のコンプトンでくすぶる若者たちがいた。

 ドラッグのディーラーとして金を稼ぎながらその商売が長続きしないことを悟り現状をなんとかしたいと考えるイージーE、レコードおたくでクラブでDJをやってる時以外は無職(妻子あり)のDr.ドレー、真面目な学生ながら暴力に満ちたゲットーの日常を記しつつたまに警官にボコられたりするアイス・キューブ。彼らを中心に結成されたグループ「N.W.A(Niggaz Wit Attitude、主張する不良黒人みたいな意味)」はこれまでにないド直球のバイオレンスやゲットーの日常が綴られたリリックと、攻撃的でありつつどこかけだるさも感じさせるトラック、本物のギャングにしか見えない(ドラッグの売人がメンバーなんだから当たり前だ)見た目も相まって一気にのし上がる。

 が、ギャラの分配の契約を巡ってグループは破綻。泥沼のディスり合いを経てなんとか再結成の兆しを見せるが、フロントマンのイージーに病魔が迫りつつあった……というようなお話。

 

 

 ヒップホップというのは音楽のジャンルだと思われているが、実のところ音楽だけを聞いていてもそこまで面白いものではない。リスナーは「○○と××がめっちゃケンカしてる!」とか「△△が□□のレーベルに入った!」とか、そういう周辺の人間関係やストーリーをトータルで消費してシーンの状況を把握し、その中で生まれる音楽がパッケージして売られている、というのが実のところだ。そういった周辺事情が巨大なストーリーを組み立て、いつしかヒップホップには40年ほどにわたる長大な歴史が編み上げられていった。様々なプレイヤーが入れ替わり立ち替わり登場しては新しいテクニックを生み出し、チームを組み、仲違いし、バトルを繰り返す様はどちらかというと音楽というよりアメコミやプロレスやガンダム三国志に近い楽しさがある。ルックがマッチョなのでわかりにくいが、ヒップホップは実は結構オタク向けのジャンルなのだ。

 

 そういうジャンルの中で、N.W.Aはひとつの特異点と言えるグループだ。なんせ西海岸のヒップホップが隆盛するきっかけをもたらした上、メンバー同士の過激な内戦や、ド底辺から成り上がったイージーEの悲劇的な死に様、キャラが立ったメンバーそれぞれのカリスマ性などは現在の眼で見ても充分魅力的。この映画ではそのあたりの面白さを存分に描いており、ストーリー自体は成り上がったミュージシャンにありがちな話ながら、『Fuck the Police』を巡る警官とのバトルやビッグになった後のまさしく酒池肉林の狂騒、メンバーそれぞれの挫折や葛藤などを猛烈に魅力的に見せてくれる。

 

 そしてメタ的に見れば、大変興味深いのがこの映画はN.W.Aの元メンバーが協力/主導して製作された点だ。製作に名を連ねるのはDr.ドレー、アイス・キューブというN.W.A元メンバーの筆頭2人。さらに劇中随一の悪役として映画に登場するデス・ロウ・レコードのシュグ・ナイト本人が撮影現場に乱入、車で俳優を轢き殺して服役するという、映画本編並みにインパクトのある事件も起こしている。

HIPHOP界の帝王シュグ・ナイトが轢き逃げ後に殺人容疑で逮捕

hollywoodsnap.com

 かつての自分たちの栄光と挫折の日々を元メンバー本人たちが製作した映画で物語るという自己言及的な構造は非常にヒップホップ的であり(とにかくヒップホップの人達は自分たちのことをラップするのが好きだ)、さらにその映画で悪役にされた人間が撮影現場で殺人事件まで起こすのに至ってはさながらギャングの抗争だ。この『ストレイト・アウタ・コンプトン』がN.W.Aの元メンバーたちによって製作され、途中でシュグ・ナイトが大暴れし、さらに映画が大ヒットしたこと自体がヒップホップ史、そしてN.W.Aのヒストリーの一部になるという構造を備えているのだ。『ストレイト・アウタ・コンプトン』はN.W.Aの伝記映画であると同時に元N.W.Aメンバーが直接作った映像作品でもある。

 その意味において、この映画の存在自体がN.W.Aとそのメンバーたちの歴史がまだ終わっていないことの動かぬ証拠となり、映画本編を見た今となってはまさしく「歴史を目撃した」という感慨がある。映画は終わっても彼らのストーリーはいまだに続いており、それは現在まで地続きなのである。『ストレイト・アウタ・コンプトン』を見た我々も、N.W.Aのヒストリーの肥やし程度にはなったのかもしれないと思うと、なんだかちょっと嬉しくなるのだ。

さようなら、スターウォーズ。初めまして、スターウォーズ。

 想像してほしい。

 あなたはこれから映画を見る。チケットを買って飲み物やポップコーンを持って映画館のシートに座り、場内が暗くなり、予告が色々と流れてから本編の上映。
 そこで見た映画に、どのような要素が含まれていたら、あなたはその映画を「スターウォーズだ」と認識するだろうか。
 
 唐突な質問なのはわかっている。
 
 20世紀フォックスのファンファーレ? ルーカスフィルムロゴマーク? ジョン・ウィリアムスのあのテーマ曲と画面奥に向かって流れていくあの字幕? 映画スタートと同時に姿を現す巨大なスター・デストロイヤー? ライトセイバーR2-D2? 
 
 スターウォーズシリーズの最新作「フォースの覚醒」には、その全てがある。等間隔に並んだライトパネルとその照り返しにギラリと輝くストームトルーパーの装甲服。埃と油汚れにまみれたミレニアム・ファルコン。漆黒の悪役。砂漠の星とそこに暮らすエイリアンたち。ならず者たちが集う怪しげな飲み屋。ハン・ソロとチューバッカ。勝気なヒロイン。引き継がれるスカイウォーカーの血筋。全部。全部ある。
 
 それはまるで、おれのような面倒くさいオタクたちが酒を飲みながら「ここがこうなってないとスターウォーズじゃねえよなー!」とクダを巻いた結果のようだ。それでいて現代の映画に相応しく、主人公は独立心旺盛なヒロインと有色人種の脱走兵。完璧なバランス感覚。本当によく練られた作品だと思うし、現在公開されるスターウォーズのナンバリングタイトルとして申し分ない。まさにスターウォーズ以外の何物でもない、エピソード7として本当にソツのない出来だ。
 
 しかし。しかしである。
 
 ウェルメイドすぎるのだ。どうにも。
 
 スターウォーズは元々ひどく歪な映画だった。カリフォルニアの鬱屈したオタクのお兄さんが周囲の逆風に耐えながら無理矢理作った映画だった。その歪さは充分ビッグネームになってから作られたエピソード1にも受け継がれている。C-3POR2-D2を出しておけばみんな満足するんだから、グンガン族なんか出さなくてもよかったのに、良かれと思って出したジャージャーは世界中で大顰蹙を買った。いまいちミリタリーの匂いのしないデザインからはひとつもスターウォーズ的なシズル感はなかった。新三部作はその歪さゆえに今では半分なかったことになっている。
 
 しかし、とりあえずジャージャーは誰も見たことがないキャラクターだったのは確かである(見たかったかどうかは置いといて)。げっ、やっちゃったなこの映画、という瞬間は常にあって、でも正直、それはそれで面白かったし今となっては愛おしいのは事実だ。
 
 翻って「フォースの覚醒」。現状考えうる、スターウォーズの7本目としてはほぼ満点の出来だったのは確かだろう。しかし、そこに歪さはない。最高に頭のいいスタッフが血の汗を流して作った映画なのは間違いないと思うんだけど、「げっ、マジかよ」という要素はない。物語上のどんでん返しですらもそりゃそういう要素も必要だよなという感じで、なんだか行儀がいいのだ。
 
 スタッフが完璧な仕事をしているのは確かだし、それは本当にすごいと思う。ほぼ不可能な仕事をこなしたと思う。画面に散りばめられた「これがこうなってるとスターウォーズでしょ?」という目配せには恐れ入ったと言うしかない。
 
 だが、それは正直、視線が過去に向いた仕事であると言っても差し支えないとは思う。「ここがこうなってればOK」という、一定の条件をクリアするのが目的のような感触がちょっとあったのだ。確かにジャージャーは成功したキャラクターとは言い難いが、でも、おれには、エピソード7を見た後だとあの向こう見ずなキャラクター造形がちょっとだけチャーミングに見える。
 
 そういう意味で、「フォースの覚醒」はほぼ完璧な映画である。我々がエピソード6の続きの映画として期待するものは全て入っている。でも、スターウォーズって完璧な映画であることを望まれていた作品ではなかったのかもしれないなと今になって思う。二度と「歪なスターウォーズ」が作られることはないだろうという事実の前で、おれは少しだけ寂しくなるのだ。もう今までのどこか歪んでいて、それでもなんだか愛おしいスターウォーズは出てこない。完璧なマーケティングブレインストーミングに基づいた、天才的頭脳集団が作った完璧なスターウォーズにおれたちは喝采を送ることになるのだ。
 
 めんどくさいですね、どうにも。